モモナナじぇーぴー - HSと学校教育の優劣

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ホームスクーリングは学校教育より優れている?

ホームスクーリングと学校教育はどちらがすぐれているか

 自分で書いといて言うのもなんだけど、なんてバカバカしい問いだろう。バカバカしいと言いながらもこう書きだしてみるのは、この手の問いをときおり見かけるからです。2008年6月、新潟で23人の小学生が、ホームスクーリングをさせるからという理由で登校しなくなり、ニュースでも報道されました。その時、ホームスクーリングというものが一時的に世間の耳目をひき、Web上で様々な感想やコメントや意見がありました。その多くは、学校教育とホームスクーリングのどちらがすぐれているか、という観点で述べられていたようです。当然ながら、学校教育しか知らない多くの人は、学校教育がすぐれているという観点にしか立てません。

 教育が、テストの点で測ることのできる学力が全てであるという単純なものならば、優劣は簡単に判断できます。テストの点数がすべてです。今流行の(?)学テがそうですね。ところが、学校教育しか知らない人の多くは、さすがにテストの点が全てだとは思っていないようです。。教育は、じつに多岐にわたるもので、何を身につけるかということ、どんな人間に育てるかという「目標」さえも、一様ではありません。ホームスクーリングと言ったって、その考え方ややり方は、家庭によってまるで違います。ホームスクーリングの中には、180度逆を向いている形もざらにあります。学校教育は、規模は大きいものの、方法論はおおむね1つです。ホームスクーリングは各々の規模は小さいが方法論は100も1000もあります。ホームスクーリングではないオルタナティブ教育も実に多様です。学校教育は、多様にありうる教育の1形態にすぎません。それ以上でもそれ以下でもありません。学校教育を絶対視しすぎると、学校教育か、否か、という視点に陥りがちですが、教育の形態としては、多様にある中の1つです。

リンゴとミカンはどちらがすぐれた果物か

 この問いが無意味であることは考えるまでもないでしょう。何をもってすぐれているとするのかが、固定されていないからです。ましてや、リンゴにしろ、ミカンにしろ、栽培方法やその年の環境によって、同じリンゴであってもどういうリンゴができるかは、かなりの幅があります。

 学校教育だって、文部科学省の方針、教育委員会の姿勢、校長の経営、担任の意欲や能力や経験や人生観などによって、かなりの幅が生じます。ホームスクーリングも、もともと多様である上に、それぞれの考え方、やり方で、著しい幅が生じます。もちろん、こどもから見たときの適不適もあるでしょう。とうぜん、学校教育の様式が合わない子だっています。それは異常でも逸脱でも病理でも何でもありません。人間としてふつうのことです。

優劣を論じることは危険

 たとえばテストの点数のような、1つの基準に限定して比較したとしても、やりようによっては学校教育が優勢になりうるし、ホームスクーリングが優勢にもなり得ます。いやいや、ホームスクーリングは多様なのだから、ホームスクーリングのうち3割ぐらいは学校教育より劣るが2割ぐらいは同等で、5割ぐらいは学校教育よりすぐれているという判断もあり得ます。しかし、やりようによっては、同じ基準でもまた大きく結果が変わります。

 社会性というのもわけのわからない基準です。別の項で詳しく書きたいと思いますが、「ホームスクーリングでは社会性が育たない」という意見をしばしば聞くものの、「では社会性とは何なのか」と聞いて答えられた人は、私の知る限り、いません。育てたい「社会性」がわからないのに、それが育つかどうかを問題にするのはどういう論理でしょう? 私は社会性を育てるために、ホームスクーリングを選択しました。私は私が考える「社会性」について、別の項で説明することにします。しかし、「ホームスクーリングでは社会性が育たない」という人たちが想像する社会性とは大きく違っている(もしかすると正反対)かもしれません。過去においては、私と正反対の社会性が大事であったが、いまはその社会性が世界を閉塞させ、打開を困難にしていると見えます。だから、私は今の時代に必要とされる社会性を子どもに身につけさせたい。

 ところが、私が考える社会性が、いつの時代もどんな国でも、すぐれているかというと、必ずしもそうではありません。学校教育が教えてきた「社会性らしきもの」も、排除すべきではありません。教育というのはつまり、相対化、多様化が必要なのだろうと思うのです。学校教育であれ、ホームスクーリングであれ、1つの理論、考え方、実践が、たとえそれが多数の成功体験をもっているとしても、100人が100人とも同じように成功するわけではありません。当たり前のことだが、意外と見落とされています。素晴らしい成功例があると、その理論は完璧であって、100%成功するという錯覚が生じやすい。学校教育であろうと、ホームスクーリングであろうと、当たり前です。

 「どちらがすぐれているか」という問いは、その錯覚を固定化します。「すぐれている」という表現自体、穏当ではないのかも知れないが、とりあえず「すぐれている」という表現を受け入れたとしても、やりようによって大きく変わるものに対して、判定はできません。

大事なことは、相対化

 だからといって、他の教育手法との比較は、無意味なのではありません。むしろ、とても重要でしょう。自分が選択した教育手法は、何かの期待があって、選択したはずだが、必ずしも期待どおりにいくとは限りません。学校教育だって、うまくいっていると言い切るのは難しいでしょう。どんな教育手法にも、メリット、デメリット、得手不得手があります。どんなに成功体験を有する教育手法であっても、改善すべき課題はあります。それを見て行くには、「ゆらぎ」が大切です。「これが一番いいのだ」と決めつけない、迷いが大切です。とはいえ、迷うときに、芯がないと、迷いが深まって沈んでしまいます。子どもにどう育って欲しいのか、という、大きな方向性は揺るがしてはいけません。そのためにどんな教育手法を採るかは、大いに迷っていい。教育手法ありきでは本末転倒です。

 学校教育は、現状では、相対化ができていないと見えます。他の教育方法との比較はなされないので、どこに課題があって、どうすれば改善していけるのかが、見えずにいるようです。学校教育を唯一絶対視しすぎるから、他の教育手法との比較がなされず、学校教育が何であるのかさえよくわからない状態に陥ってしまっているようです。ゆとり教育をするのか、廃止するのかは、学校教育内での迷いに過ぎません。相対化ができていないから、なぜゆとり教育がでてきて、ゆとり教育が結局どういうものであったかが総括できないまま、ヒステリックに否定してしまっています。ちょっとわが子を託せない泥舟状態ですね。

 私は、特定の教育手法を排他的に採用することは避けています。逆に言うと、ホームスクーリングをしているが、学校教育を否定はしていません。学校教育も、あまたある教育手法の1つであるからです。学校に行くか行かないかは、実は些末な問題です。「今からリンゴを食べるかミカンを食べるか」という悩むぐらい、バカバカしいとまでは言わないが、あまり熱をあげるものでもないと思っています。

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