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[006]大正・関東大震災からの学び

  

 

近代日本の、最大の災害は、大正12年の関東大震災です。死者20万人とも14万人とも言われます。そして、関東地方での大地震は、いつか必ず再来します。東日本大震災によって、切迫しているとも言われます。

東日本大震災の大津波では、過去の資産を大事にする気づきが必要とされているようです。未来の(もしかしたらすぐ先の)平成・関東大震災における被害をできるだけ小さくするには、できる限りの気づきを災害前に得てしまうことです。

東日本大震災は、水の難でした。大正・関東大震災は、火の難でした。災害の性質が大きく異なります。私たちは、大正・関東大震災から、じゅうぶんな気づきを得たでしょうか?

大正・関東大震災の記録として評価が高い『関東大震災』(吉村昭)を読んでみました。

江戸時代、正徳6年(1716)、宝暦10年(1760)と、二度にわたって江戸で大火災が起きました。その際、二度とも、避難者の携行する荷物が災害を大きくするという事態が生じています。幕府は、お触れを出し、火災時には大きな荷物を持って避難すれば厳しく処罰するとしましたが、三度目である大正・関東大震災では、その学びが、まったく生かされませんでした。

最も被害が大きかったのは、墨田区の被服廠跡です。20430坪という広大な空き地で、38000人が焼け死んだのです。普通ですと、大きな空き地に避難した時点で、安全が確保されたと思うのですが、避難者が持ち込んだ荷物に次々と火がかぶり、火災旋風となって、人々は逃げることもできず、死体が山を築いたとのことです。Webで「被服廠跡」と検索すれば、その凄惨な写真が見られます。過去二度の江戸の大火災から学んでいれば、被害はもっと小さく食い止められたはずです。

池や川も、死体が累々となったそうです。水も役に立ちません。水道はずたずたとなって使えません。

では、助かったのは、どういうケースか?

浅草区、横浜は、ほぼ全域が焼失しましたが、地図で見ると、ぽっかり焼け残った空白エリアがあります。そこでは、人々が、周囲から迫り来る猛火に立ち向かい、池の水を大勢の人が手作業で、バケツリレーし、ギリギリで持ちこたえたそうです。20時間にわたり、全方位から来る炎に立ち向かいました。もし力及ばなければ、そのエリア内の10万人が全員焼死したであろうというどたんばです。怖ろしかったことでしょう。

結局、生き残ったのは、逃げずに火災に立ち向かった人々で、逃げた人々は炎に包まれたとのことです。津波被害とは真逆です。もし、炎に持ちこたえた10万人が、パニックを起こして、逃げ惑えば、そのエリアに炎が侵入してきて、またたく間に一帯が焼き尽くされ、池に飛び込んだ人々は溺死あるいは圧死、あるいは焼死をまぬがれず、どこへも逃げ場がなくなってしまいます。

得られる気づきはまだあります。

本震の前に、明らかに異常な地震活動が続いたのに、地震学者が、社会の混乱を避けるため、「異常なし」を連発し、対策を打つことができませんでした。今回の原発災害に通じるところがあります。

当時、明らかに異常であると警告を発し、大震災への備えを促し、大火災の危険を、ほぼ実際に生じたとおりに予測し、警告していた若手の地震学者は、その声を打ち消されていました。結果、真摯に警告していた学者の予想通りになりました。もし、その警告を受け止めていれば、被害は大幅に軽減したかも知れません。これもまた、今回の原発災害とそっくりです。

私たちは、甚大な被害の出た災害から、じゅうぶん学んだとは言い難いです。

さて、大正・関東大震災では、さらに別の甚大な被害の出た事件が発生しました。この学びも重要です。

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