平凡な人が、創造の力を使って、人生を変えるプロジェクト

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創造の力

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[015]宗教は諸刃の剣

  

 

宗教は、人を救うことを目的にするはずです。
そのはずなのですが、現実はそうでないことも多々あります。

私たちは、歴史の授業でなんとなくしか習いませんが、人類の歴史上、壮絶な虐殺が幾度となく繰り返されています。個別にあげるときりがないほどです。人間は、ふつうの精神状態ではなかなか虐殺などできません。まれに精神異常者が残虐な事件を起こすこともありますが、それは、1人が実行するケースです。集団であるいは国家で虐殺を行う場合は、多くの人を駆りたてる何かが必要です。その役目を宗教が担うことが、意外にもというか、あまりにも多いです。

宗教は、人を救うことが期待されるはずです。なのに、なぜ、対極の現実を生じてしまうのでしょうか。政治理念を広義の宗教とするなら、虐殺はほぼ全てが宗教に基づくことになります。

実際のところ、異教徒に対する殺害を容認、あるいは推奨していると読める教義は、多くの宗教に存在します。

一方、信仰の力が人を救ったり、世界を良い方に変えたりしたこともあります。

「信じる」ことは、大きな力と、大きな結果をもたらします。だから、それを利用(あるいは悪用)したくなるのも無理はありません。宗教が、良い結果をもたらすか、悪い結果をもたらすかは、どこに境目があるのでしょうか?

宗教を表層的に理解するとこうなります。
創造→支配→命令→犠牲

しかし、宗教ごとに違う世界があるのではなく、どうしたって世界は1つですし、1つの世界にいろんな宗教があることはまぎれもない現実です。現実をふまえて宗教を隠喩として理解するなら、こうなるはずです。
創造→感謝→させていただく→代償

表層的理解では、自分のために他人を動かそうとします。それが支配です。独裁、狂気、妄信は、これです。ここから生じるのは、犠牲を伴う悲惨な結果です。虐殺だけではありません。日常的に、私たちは、自分ではなく他人をどうにかしようと考えがちです。

「儲けたい」「愛されたい」「褒められたい」「健康になりたい」・・・
悪いことではないのですが、世界から自分へ向かうベクトルですね。ただ、ここへ集中してがんばりすぎると、うまくいかないことが多いでしょう。

隠喩的理解では、他人をどうするかではなく、自分はどうするかです。なぜ、他人ではなく自分かというと、自分は世界そのものだからです。自分がどうするかというのは、世界を救うことに尽きます。世界を救うために、目の前にあることがらに対して一生懸命力を尽くすと、どんどん奇跡が起きて、自分の必要なものが備わってくるというものです。自分から世界へ向かうベクトルですね。世界の偉大な成功者や、世界に良い功績を残した方々は、例外なくこのパターンです。

宗教とは、このように理解すべきものなのではないでしょうか。

神や仏が、世界を支配していると考えるなら、すべての宗教は矛盾し、かち合います。異教徒を排除せざるを得ません。これは、競争原理であって、創造ではありません。

神や仏は、最も低いところで世界を支え、代償を払って世界を「救わせていただく」という存在なのではないでしょうか。どのような宗教でも、隠喩として、そのように読めないでしょうか。もちろん、あらゆる神話も、民話も。

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