平凡な人が、創造の力を使って、人生を変えるプロジェクト

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創造の力

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[017]心地よい代償

  

 

自分から世界(相手)へ差し出すと、損をした気になります。
世界(相手)から自分へ何かが来ると、得をした気になります。

これがくせ者です。

自分が幸せを望むとき、何かを手に入れることで実現しようと考えます。たくさん手に入れるほど幸せだと思います。お金、物、愛、名声、評価、権力などなど。
これらが自分から出ていけば、自分「の」所有が減り、損をし、幸せから遠ざかると感じてしまいます。

ところが、誰も好きこのんで、「私」のために、いろんなものを次から次へと回してくれることはありません。だから、無理をして、欲しいものを私へ向けようとします。

支配→命令→犠牲

よく考えれば、そうとう無理がありますね、この形は。世界から奪うばかりです。世界は私のもの? 世界はなんでも私の言うことを聞いてくれる? 世界は私の召使い? だとすると、私は何者? 神?

どの宗教や神話でも、人間が自ら神と等しいと見るとき、ものすごく神は怒り、激しい罰があります。ギリシア神話では、神と同等であると思った人間に対し、神が生皮をはがしてしまいます。あまりの仕打ちです。キリスト教やイスラム教では、人間と神は厳然たる区別がなされています。仏教でも、人間は「仏になれる」と説く一方、「私は仏である」と思い込むことは厳しい叱責がなされます。

これらは、隠喩的にどう読めるでしょうか。

人間は、自らを絶対的な存在であると錯覚すると、世界を支配しようとしてしまいます。絶対的な存在であるならこそ、世界の底辺で世界を支えるために尽力しようとするはずなのに、人間は、逆をしでかします。それは、悲劇を生みます。どの宗教でも、その道を断とうとするにもかかわらず、宗教が支配に使われてしまいます。

世界は、「私の所有」ではありません。世界は、私の存在そのものです。だから、世界から収奪する一方では、破滅に向かいます。

世界=私

であるからこそ、世界へ差し出せば差し出すほど、自分が豊かになり、幸せに近づきます。あらゆる宗教、神話を隠喩的に読めば、「世界=私」とならざるを得ません。

そう考えると、自然に次のようなパラダイムに行き着くでしょう。

感謝→させていただく→代償

代償は、自分が世界へ差し上げるものです。お金、時間、労力、尊敬、愛、あらゆる力など。

「○○をくれるなら、これをあげる」ではなく、
「先に○○してくれたら、私も○○する」でもなく、
「○○してあげるから、ぜったいに○○をくださいね」でもありません。

無償の愛、博愛、布施、慈悲。それぞれ、宗教にはこの概念があります。

そしてまた、過去の歴史や、民話や、ドラマなど、何を見ても、感動はここから生じます。そして、自分の望みの実現も、ここから生じます。代償とは、「損失」ではありません。打ち出の小槌そのものです。私が言うのではありません。人類の叡智が、そう語りかけます。

かといって、なんでも差し出せばいいかというと、違いますね。あることを伴って差し出せば代償ですし、それを伴わずに差し出せば、たんなる無駄に終わります。代償と、それは、必ず一体でないと成り立ちません。

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