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創造の力

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[020]善悪不二

  

 

すべての宗教の共通点は、神であれ、仏であれ、聖典であれ、教義であれ、儀式であれ、世界そのものです。だから、どの宗教にとっても、異教徒という概念は、あり得ません。

宗教は、善と悪について、教えを説きます。
人を殺してはいけないとか、盗んではいけないとか、嘘をついてはいけないとか、だいたいこのくらいはどの宗教でも共通した「悪」です。なのに、宗教によっては例外を認める場合があります。異教徒を殺すのは善だとか、神にささげる生け贄は善だとか、異教徒から取り返すのは善だとか。嘘はいけないが、方便はよいというのも人間にはわかりにくいです。

善と悪は、科学的に証明する命題ではないので、主に宗教や道徳が受け持ちます。短絡的な善悪の区別は、おそろしく危険です。

誰が、善と悪を判断するのか。善と悪は、客観的な区分が難しいのがふつうです。さらに、あちらでは善だが、こちらでは悪であるというようなものもざらにあります。

多くの国では、法律が、「してはいけないこと」について定めています。しかし、法律は、善悪について定めません。法律に違反しなければ何をしても良いかというと、そんなことはなくて、人間として積極的にすべきことと、してはならないことがあります。

私たちには、善と悪のよりどころが必要です。道徳、モラル、マナーの土台であり、社会を成り立たせていく上で、善と悪の規範が不可欠です。

一方、仏教には、「善悪不二(ぜんあくふに)」「邪正一如(じゃしょういちにょ)」という概念があります。善と悪は、別のものではない。邪と正は、同じものだ。こういう概念です。

どのような悪事でも、人々に学びを与え、世界を成長させる、すなわち世界を救うことにつながっていくと考えれば、善と悪の別は、絶対的なものではなくなります。

むしろ、善と悪を明確に規定することが、悲劇につながることは、歴史上、あまりに多くあります。戦争中、何が悪とされたか、それだけで見ても、怖ろしいことです。そして、その善悪の規定をになっているのは、まさに宗教なのです。

宗教の悲劇は、このパラダイムから生じます。善悪の悲劇もここから生じます。

支配→命令→犠牲

いっぽう、このパラダイムは悲劇を生みません。

感謝→させていただく→代償

善悪も、基本的にこれらのうちどちらから生じているかで判断すべきだと思います。私たちは、悲劇を避け、幸せへ最短で進むため、後者のパラダイムを選択したいものです。

一方で、創造が強烈に働くのは、むしろ、悲劇、災い、挫折などにおいてです。つまり、「悪」こそ、創造の源であると言えなくもないのです。他人が犯す悪、身近におきる悪、これらから目をそむけるのではなく、何かを学ぼうとする姿勢こそが、創造を生みます。神話や民話も、それを強く訴えています。

悪は、世界を救うために存在する。それこそが、善悪不二なのだと思います。

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