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[037]普遍的な原理の修正

  

 

『夜と霧』を紹介させて頂きましたが、ここで語られていることは、貴重な体験でありながら、昔々から、世界中で様々に言われてきたことと同じです。新しい何か、があるわけではありません。

絶望を超えられないような原理は、「普遍的な原理」にはなり得ません。

「命が大切」という原理は、とても大事な命題ですが、普遍的な原理とまではいかないようです。では、「愛」はいかがでしょうか。

日本人は、愛などというと照れくさくなりますが、表現の仕方は別のものでもかまいません。

「命が大切だから私は命を持っているのだ」という論理は、奇妙です。私の命が大切なのは、私が生きているからであり、私が生きていないなら、私の命は大切ではない。この論理だと、他人から見ると、私の命が大切だという根拠がないことになります。

「死にたくない」というのは普通に持っている感覚ですが、「死にたくない」だけだと、恐怖や絶望がかえって増していくことも多く、逆に道がふさがり、あきらめてしまうこともしばしばです。

「命が大切だ」という命題は、「すべての命が大切だ」と理解すべきです。

「自分の命が大切だ」と「すべての命が大切だ」は、言葉のあやではありません。まるで違うパラダイムです。「すべての命が大切だ」なら、『夜と霧』で語られていることは、そのまま成立します。

愛とは、すべての命を大切にすることそのものではないでしょうか。命とは、生きているかどうかだけでなく、その人の存在だと考えるべきでしょう。

そして、「すべての命が大切だ」という思いは、至福を生じ、苦しみを乗り越え、あらゆる問題を解決する力を生じます。

しかし、この命題は困難です。現実には、悪人や嫌いな人が、いっぱいいます。これらの命でさえも大切だと考えるのは、とても難しいことです。

今、私が語っていることは、宗教そのものであるように見えるかも知れません。でも、現実には、宗教は惨禍をもたらすことも多くあります。ある神を信じ、ある教義を信じることが正しく、それ以外の神を信じ、教義を信じることは間違いである。すると、2種類の宗教が存在すれば、どちらかが正しく、どちらかが間違いだとならざるを得ません。一神教と一神教は、理論的には共存できません。一神教と多神教の共存も矛盾しています。多神教と多神教でさえも、教義の共存はできません。

世界には、普遍的な原理があって、[そこでの文脈]によって表現されるところの原理が、[そこでの知]ではないかと、私は思うようになってきました。

どんなに大きな宗教も、[そこでの知]の1つではないでしょうか。普遍的な原理を説くとされる宗教でさえ、複数の宗教が存在するなら、すでに、普遍的ではありません。では、個々の宗教は間違いかというと、そうではなく、普遍的な原理が、[そこでの文脈]で表現されているのだと理解すれば、世界中にどれほどたくさんの宗教があろうとも、矛盾なく共存が可能となるはずです。

そして、宗教と科学も、矛盾なく、共存可能なはずです。

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