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[040][そこでの知]は常に正しいか

  

 

ちょっと極端な事例を考えてみます。

16世紀に、スペインに征服されたアステカでは、征服されるまで、つまり、今から500年前まで、史上最大規模の生け贄の儀式(人身御供)をやっていました。宗教的儀式です。神に、生きた心臓を提供し続けないといけないとのことで、生きた人間の胸を切り裂いて心臓を取り出しました。犠牲者は一度の儀式で数百人。最大の儀式では、4日間で8万人とも言われます。凄惨きわまりない「文化」です。

これもまた、[そこでの知]と言うべきでしょう。

アステカほどの規模は例を見ませんが、このような人身御供は、世界各地で確認されており、儀式において、犠牲者の人肉を食べることもよくあるようです。

日本では、人柱はじっさいに各地でありましたが、人身御供が実際におこなわれた証拠は確認されていません。人柱は、難工事における祈願のための生き埋めで、単発であり、宗教儀式ではありません。人身御供は、神にささげられる宗教儀式で、定期的に繰り返されます。

ただ、日本でも、伝説や昔話には、人身御供そのものか、人身御供を想起させる内容のものが、多くあります。神社の祭祀でも、遠い昔、人身御供だったが、今では通常のお供え物や人形に変わったと伝えられているケースがあります。

先進文明に住む私には、理解できないし、許容できません。

人身御供は、特定の地域のみで見られる特異な事象ではなく、世界各地でありました。彼らにとっては、「殺人」ではなく、聖なる栄誉だったようです。

人身御供をしたところで、何かがどうにかなるわけはありません。神が出てきてむしゃむしゃ食べるわけでもありません。なぜ、そのような、私から見ると無意味な蛮行が実在したのでしょうか。

[そこでの知]に、正しいか、間違いかという評価を下すことは、適切ではないはずです。現在、人身御供を行う種族は、公には存在しないはずですが、もし、ある種族が、今なお人身御供をしていれば、私たちは、それをやめさせるべきでしょうか。それとも、[そこでの知]を尊重すべきでしょうか。

人身御供は、宗教儀式です。世界愛を、[そこで文脈]で表現して生じた知であると、見られなくもありません。私たちが見ると、そんなものは世界愛でもなんでもないのですが、彼らは、世界の平和のために、聖なる犠牲と考えています。好ましくない[そこでの知]は、[そこでの文脈]に問題があると考えられないでしょうか。

「好ましくない」のは、外野から見ての話ですが、当人たちにとっても、じつは好ましくない結果につながります。

アステカは、強大な軍事力を誇ったのに、わずか500人のスペイン人にあっけなく滅ぼされました。人身御供が大きな原因であったと言われています。周辺国が、スペインの味方をしたこと、人身御供による国力の弱体化があったと言われています。1100万人いたとされるアステカ人が、数十年で、100万人にまで減少しました。

最近まで人肉食をしていたある種族では、継続的に人肉を食べていたことから、ヤコブ病を発症しました。

他者が、好ましくない[そこでの文脈]によって、好ましくない[そこでの知]を持っていたとしても、その修正は、容易ではなさそうです。修正してあげることが良いことなのかどうかも、判断の難しい問題です。

では、「私たち」が、何か問題を抱え、行き詰まっているとき、私たちの[そこでの知]は、いかがでしょうか。

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