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[042]そして、てんでんこ

  

 

もし、今回の震災のあと、てんでんこが広く話題とならなかったら、きっと、てんでんこは、静かに、ひっそりと、今までと同じように継承されていったのではないかと思われます。

しかし、はからずも、大きな話題となり、しばしば大津波で被害の出るインドネシアまでが、関心を寄せているようです。

そして、てんでんこに関して、文脈内にいる当事者が、困惑されています。googleで検索しても、文脈内にいる方からの情報はなかなか見あたりません。ほとんど、報道か、研究か、文脈外の方の関心による情報です。

文脈というのは、そこで実際に起きたことのすべてが含まれています。肉親を捨てられるのか。警察や消防の方の殉職。ごくわずかの差で分かれた生死。愛する人の溺死体。住みなれた町の変貌。

それに対し、文脈外からの強い関心と接触。これは、「異人」そのものです。

おそらく、てんでんこの[そこでの文脈]に変更が生じるでしょう。過去の津波と比べ、津波自体は同じでも、町のあり方、ライフスタイルは激変しています。変更が必要なのでしょう。

てんでんこの場合、異人が強制的に変更するという形態は生じそうにありません。

生きるか死ぬか、という危機的状況の場合、『夜と霧』のように、極限での判断や行動がなされることも多いでしょう。「てんでんこが、こう伝えているのだから、そのように行動した」という人もいるようですが、てんでんことは関係のない判断や行動をされた方も多かったでしょう。世界愛という普遍的な原理と、てんでんこという[そこでの知]は、矛盾するようで矛盾しません。自分の命も、他人の命も、単純な論理で割り切れるほど軽いものではありません。

すべての命を大切にし、すべてを救おうという原理から、何をおいても生き延びようという真逆に見えるてんでんこまで、その幅広い中に、すべての現実がおさまっています。

現実には、[そこでの文脈]は、1人1人で、みな違います。

東北の方々は、けっして利己主義ではなく、1人でも多くの人を助けようと、多くの方が奮闘されました。彼らにとって、てんでんこは、利己主義の教えではなかったはずです。

彼らはそれぞれ、深い人間愛を持っておられるので、わざわざ普遍的な原理などという必要もなく、むしろ、無理をしなければ選択しにくい「てんでんこ」の方を、しっかり伝えてきたのではないかと思います。

そして、彼らが、てんでんこの通りに行動しても、それは、自分さえよければいいという選択ではなく、深い世界愛の発露としての選択であったのではないかと思われます。だから、助かった人々も、傷を負い、苦しみを背負うことになってしまうのです。

今回の津波を経て、彼らは、てんでんこの重さ、苦しさに、新たな伝承を始めるのではないかと、思われます。

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