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創造の力

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[043]普遍的な原理と歴史

  

 

人類の歴史は、あまり美しいとは言えないことの連続です。

戦争、独裁、差別、災害、飢饉、難病、植民地、貧困、虐殺・・・

でも、私たちの社会は、歴史を経るごとに、変容していきます。同じではありません。

昔は、認識できる世界が小さかった。だから、世界の外の「未知の人類」への対し方がわからず、戦争や侵略や征服を繰り返し、奴隷制度や虐殺を繰り返し、私たちは、だんだん学んでいきました。人はすべて、生まれながらに等しく人権を持っており、お互いに協力し合って生きていくようにできているということを。

だんだん、その原理らしきものを社会の仕組みに組み入れ、それでも失敗と学びを繰り返し、現在があります。

民主主義国家では、どの国でも、差別や独裁を許してはいけないと考えられるようになり、皆が幸せになれる社会を目指すべきであると考えられるようになり、基本的に戦争はあってはならないと考えられるようになってきました。昔と違って、宗教や経済や政治を理由とした戦争はできにくくなっています。「世界が幸せになれるための戦争」という大義しか通用しにくくなっています。そのおかしな大義も、じっさいにやってみて、世界中の人々は大義ではないと学びつつあります。「次の戦争」は、さらに大義が難しくなるでしょう。

国連は、機能が未熟で、あまり役に立っていないという見方もありますが、人類の苦難の末に、ここまでたどりついたと受け止めたいです。大国のエゴが剥きだしだという一面はあります。100点でないからダメだと言う減点思考ではなく、各国がバラバラに侵略と植民地支配を重ねていた時代から、よくここまで進歩したと見ることもできるはずです。国連は、世界愛という、普遍的な原理を形にする方向へ、一進一退しつつ、歩んでいます。

現在、他国を植民地支配するために武力を使う国はほぼありません。かつて植民地を持っていた国も、他国を支配しようという思想がどれほどの悲劇を生むか学び、植民地支配したいとはいまさら考えません。もちろん、経済的な実質植民地と言える状況は現在もあります。100点でないことは言うまでもありません。

一神教は、異教徒に対して、厳しい態度をとります。「異教徒を殺せ」と明言されている聖典もあります。かつては、そのとおりの行動がとられました。だって、そう書いてあるんだもん。

でも、今では、ごく一部の原理主義思想をもつ人々以外、そう書いてあっても、字義の通りには受けとりません。隠喩的に解釈し、異教徒とも、平和に共存しています。一神教がなくなったわけではなく、厳しい神様が優しい神様に交替したわけでもなく、教義が変わったわけでもなく、信仰が薄らいだわけでもありません。宗教は、昔のままです。

私たちは、宗教の素晴らしさと、宗教の恐ろしさを学び、普遍的な原理に基づいた信仰のあり方に、自然と変わってきたのです。それでも、まだまだ宗教にまつわるトラブルや事件や紛争はなくなっていません。私たちは、学び続けます。

愛は、キリスト教から生じた概念ですが、仏教でも、すべての命を大切にするという根本理念がありますし、他の宗教や文化にも、様々な表現方法で、そのような概念が存在します。

認識しうる世界が小さかったころ、「世界」とは、自分の地域であったり、民族であったり、国であったりしました。世界は1つなのに、世界と世界が軋轢をおこしていました。

今、世界は大きくなり、世界中のかなり多くの人が、世界を世界と認識するようになっています。世界は、これ以上広がりません。地球外生命体と交流が始まれば話は別ですが・・・

世界は1つです。そこに、たくさんの宗教があり、たくさんの「唯一の神」がいて、たくさんの民族があり、たくさんの人種があり、たくさんの文化があり、幸せな人も苦しい人もいると、多くの人が知っています。世界が狭かったころも、世界が世界となった今も、普遍的な原理は変わりません。

普遍的な原理と相容れないように見えるできごとをたくさんたくさん繰り返して、徐々に学んできたのです。学びとは、現実を通して普遍的な原理を深めていくことではないかと思います。普遍的な原理は、理論ではないので、原理そのものを学ぶことは不可能です。経験やできごとやお話を通して感じることしかできません。

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