平凡な人が、創造の力を使って、人生を変えるプロジェクト

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創造の力

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[058]世界を救うという危険

  

 

世界は、世界を救うという原理で動いています。

この言い方には、危険を伴います。

「世界を救う」という表現は、絶対的善を思わせます。世界を救うために○○してはいけないとか、○○しなければいけないとか。

これはダメです。どう生きようと、世界を救うしかないのだから、世界を救うために禁止事項を設けたり、義務を設けたりするのは、まったくナンセンスです。

世界を救うということを考え、判断するのは、あくまでも自分自身です。だからこそ、自分で責任を持たねばなりません。責任を持つのが怖いなら、世界を救うという自分のミッションでさえ、誰かにゆだねねばなりません。

それは危険です。独裁や人権蹂躙の怖れが大きくなります。

その危険は、責任への怖れにあります。では、具体的に、世界を救うという責任は、何が怖いのでしょうか?

考えれば考えるほど、恐怖の実態はありません。怖れるものは、とくに見あたりません。怖れる理由はないのに、怖れる。そして、責任をのがれる。そして、自由を失う。

それでいいなら、いいでしょう。

でも、必ず、不平不満を山ほど言うことになります。

世界を救うという責任を回避したら、不本意に世界を救うということになるので、不平不満が出てしまうのです。

自分から主体的に世界を救うなら、不平不満は生じません。

そしてまた、世界を救うということは、誰かに命令されたり、誰かにお願いされたり、誰かのために自分が犠牲になることであったり、誰かに正しいかどうか決めてもらったり、そういうものではありません。先生や、友人や、家族や、上司や、牧師や僧侶や、書物や、占い師や、そういう方々に意見をもらったり、学ばせてもらうことは、大事です。自分が世界を救うことを選択し、行動するのは、自分です。自分の人生、自分の選択に自分が責任を持たねばなりません。

創造の力を使うなら、選択と責任が不可欠です。

逆に言うと、自ら選択し、責任を負うなら、どんな人でも、創造の力を使えます。選択と責任を、誰かにゆだねて、創造の力を使うということは、不可能です。

選択といえど、自由気ままに何をやっても良いかというわけではありません。なぜなら、私たちは、世界の一部であり、世界そのものです。世界を救うということしか、できないのです。悪と思えるようなことをしても、必ず、世界を救うという結果になります。

世界を救うという結果につながらないことは、善であろうと悪であろうと、誰がどう言おうと、できません。

あの人にできるのに、私にはできない。それは、あの人がそれをすることで世界を救うという結果が生まれるけど、私がそれをしても世界を救うという結果が生まれないということです。人それぞれ、性質や環境が異なります。だから、世界を救うという形も人それぞれです。

だからこそ、自分で選択しなければならないのです。

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