平凡な人が、創造の力を使って、人生を変えるプロジェクト

モモナナじぇーぴー

メイン
創造の力

創造の力

[091]すばらしき格差

  

 

昨日、「格差はいいものですよ。もっとも、そう感じるには、自由を手に入れていなければいけませんが・・・」と書きました。

自由と平等は、無条件に良いものとして言われることが普通ですが、よく考えると、奇妙です。

自由とは、制約を小さくすることであり、国家権力を小さくすることで実現します。国家権力が大きく、かつ、国民が自由であるというのはあり得ません。国家権力が小さくなるということは、「自然状態」に近づくわけで、とうぜん、弱肉強食や淘汰が生じます。

いっぽう、平等とは、自然状態で実現するものではないので、国家権力による調整が必要です。必然的に、個人の自由を制約します。

自由と平等とは、相容れない概念であるはずです。

なぜ、この両者が、並んで言われるのでしょうか?

これは、無い物ねだりなのではないでしょうか?

しかし、平等は難しい。共産主義は、究極の平等をめざしたはずなのに、現実は、独裁政治を生んでいます。思想は正しいが、運用を間違ったのだという評価もありますが、ほとんどの共産主義が破綻したのは現実です。残っている共産主義も風前の灯火です。成功例はありません。これが現実です。

「うまくいかなかった」というより、「うまくいくはずがない」と、私は思います。なぜなら、平等を実現するには、神の存在が必要だからです。民の財産を取り上げて、「平等に」分配する仕事をする神が必要なのです。じっさいには神でなく、人間がそれをするわけですから、イコール独裁とならざるを得ません。

平等とは、きわめて不自然な状態です。

人が皆、平等であって欲しいという願いはよくわかります。その願いは、現実がそうでないことの裏返しです。その願いを実現するには、強権が必要です。

共産主義の対極は、新自由主義でしょう。すべてを市場原理にゆだねる。社会の問題は、市場経済が解決するという考え方です。

これも、無理があると思います。なぜなら、人間の多くは、自由を怖れるからです。自由とは、良いもののように見えて、なかなか厳しいものです。

必然的に、競争や淘汰を伴います。我が身を守る存在はありません。もし、我が身を守る存在があるなら、それは「制約」そのものです。

たとえば、子どもから見ての「親」を考えてみましょう。幼い頃は、すべてを親が仕切ります。子どもの自由は限られています。だんだん、成長するにつれて、子どもは自由を求めます。親から離れようとします。親は関与を減らしていきますが、必然的に、子の自己責任部分が増えていきます。やがて、子は独立し、自由と責任を獲得します。

「自由は子どものもの、責任は親のもの」と言ったらどうしますか?

「自由が欲しいなら、自分のことは自分で責任をもちなさい」って言いませんか?

このときの親の気持ちって、どんなものでしょうか。子どもを突き放しつつも、あたたかく包み込む思いがないでしょうか。

これが、人間と動物の違いです。格差が幸せにつながるというからくりが、ここにあります。

前へ前へ  TOPTOP  次へ次へ