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[115]世界を救うという快楽

  

 

「世界を救うというミッション」について、たびたび触れています。
それでも誤解されやすい部分なので、詳しくお話しさせてください。

世界は絶対に救われることが完結しません。だから、「世界を救うというミッション」は、永遠に到達し得ないビジョンなのです。

世界が救われた姿をイメージすることは不可能です。天国とか極楽浄土とかユートピアといった理想郷は、世界の姿ではありません。世界はたえずマイナスの存在を必要としています。マイナスの存在のない世界は、世界ではありません。もっとも、「天国や極楽が、自分の心の中のあり方なのだ」という考え方なら、否定はできませんが。

人間は、独力では、世界を救うといういかなる活動もできません。「世界を救うというミッション」をもつことはすなわち、世界に対して謙虚になることに他なりません。「私が世界を救ってやるのだ」という感覚は、「世界を救うというミッション」と対極です。

「私には世界を救うなどという大それたことはできない」などという考えは、傲慢です。どんな微細な生き物でも、世界を救う役割を持って存在しています。世界を救わずに生きていくなどという現実からかけ離れた考えを持つのは、自分は世界から離れて生きていけるという意味です。

「世界を救うなどという犠牲的な生き方はいやだ!」という考えが、じつは最も根源的な問題でしょう。じっさい、多くの宗教では、欲望や煩悩を戒め、禁欲的に、節度的に生きることを奨励しています。しかし、現実には、そのように生きている人はまれです。欲望や煩悩も、世界を救うために必要だからこそ、存在しているのです。

じゃあ、欲望にかまけてしたい放題のことをしていればいいのか、というと、私の立場では、「どうぞご自由に」ということになります。しょせん、世界の全ての存在は、世界を救うための何らかの役割を果たしています。本人(人でなくても)が意識しようとすまいと関係ありません。どんな悪人でも、その人が与えた苦しみによって、世界は結局救われていきます。わざわざ「世界を救うというミッション」からはずれようとするなら、その度合によって、幸せがどんどん小さくなり、満たされない思いが大きくなっていきます。

人間は誰でも、幸せになりたいと思うはず。だったら、世界の原理に最も近づいた生き方が、最も幸せを感じることになります。世界を救うというミッションは、決して犠牲的生き方ではありません。なにか問題があっても、世界を救うというミッションでもってあたれば、最も良い解決が可能です。

神や仏の存在はどうか? 私には答えようがありません。神や仏の存在を客観的に証明することは、いまだなされていません。それは、宗教的冒涜であるといわれるかも知れません。私には、否定も肯定もできません。しかし、世界なら誰にでも客観的に理解できるでしょう。世界とは、あらゆる生命をふくんだ、地球のことです。人間も、世界の一部です。人間が世界に逆らうことなどできません。環境破壊や戦争にしても、それによって困っているのは、地球ではなく、人間自身です。

世界に意思などあるのか? 神のような意思があるかどうかはわかりません。しかし、太古より、生命が進化し、絶妙のバランスが保たれてきたのは事実です。それが偶然のたまものであるなら、明日には世界が壊れても不思議はありません。でも、明日も明後日も、世界は世界でしょう。

世界が今日も世界として存在しているということそのものが、究極の奇跡ではありませんか? そして、そのことは、世界を世界として成り立たせている原理が存在することを暗示していると思いませんか?

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