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[125]近代科学に嫌われた「私」

  

 

近代科学と言えば、圧倒的に西洋(欧米)を指します。
このことに異存はないでしょう。
しかし、西洋はながらく、キリスト教の呪縛に苦しんでいました。キリスト教が悪いのではなく、「考え方」が宗教に縛られていたため、聖書を中心とした思考から離れることができませんでした。

中世に、科学的思考と宗教を分離したことで、以後、飛躍的な文明の発展を遂げます。

科学とは、きわめて客観的なものです。人によって変わるものであってはなりません。だから、感覚とか、精神とか、心とか、そういう主観的な部分を排除して、とことん抽象化を進めました。

おかげで、我々は、どれほど豊かさを享受できたか。まったくもって、西洋文明のおかげです。彼らの、客観的、抽象的な思考方法は、絶大な豊かさをもたらしました。

なのに、私たちは、「幸せ」を手に入れたか、と問われたら、YESともNOとも言い難い。

西洋文明は、主観を排除しました。ということは、「私」が排除されたのです。たしかに、豊かになりました。それを幸せと感じるのは、「私」です。その「私」は、忌まわしきモノとして、排除されています。

効率、システム、マネジメント、管理・・・

「私」は障害でしかありません。

はあ、私は、近代文明によくよく嫌われたのですね。

近代文明は、物事を細かく分け、分析することで、巨大な知的体系を築き上げました。主観の入り込む余地はありません。

しかし、知的体系が膨大となりすぎて、全体を見渡すことが非常に難しくなり、そのために、現実に起こる問題が複雑に見えるようになり、解決困難となってきています。

それを、分析的な方法で何とかしようとすると、さらに難しくなってしまいます。

どうすればいいか。

綜合でしょう。どんなに大きな世界であれ、全体を俯瞰すれば、世界は1つです。分析しすぎると、複雑さをエスカレートさせるだけです。

綜合のために必要なのは、科学的知見でなく、「私」です。まさに、東洋の伝統は、「私」であって、綜合なのです。

しかし、東洋の伝統が、西洋のごとき豊かさをもたらさなかったのも事実。綜合だけでも不足なのです。

単なる綜合としての「私」は、未開で、未熟な文明です。西洋がバカにするのも、ゆえなしではありません。

西洋の行き詰まりに提案するには、旧き良き東洋ではダメなのです。

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