平凡な人が、創造の力を使って、人生を変えるプロジェクト

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創造の力

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[144]「何でもあり」を実践するには

  

 

わが家は、何でもありのホームスクーリングです。何でもありなので、特定の教育理論には依拠していません。もちろん学校教育にも依拠していません。しかし同時に、あらゆる教育理論と学校教育をできうる限り学び、取り入れています。

例えば、「○○教育」という特定の教育理論を素晴らしいと思い、それをぜひ実践しようとしたなら、○○教育以外の教育理論は、自分たちの世界には存在しないことになります。学校教育に依拠したなら、あらゆるオルタナティブ教育は、知識として理解できたとしても、実践は不可能です。オルタナティブ教育の中のある教育理論に依拠したとしても、それ以外の教育理論は実践不可能ですし、学校教育も実践不可能です。

教育理論だけでなく、子どもたちの手の届く限りのあらゆるものを学びとして生かしていくには、無駄と非効率と矛盾に寛容でなければなりません。そして、子どもの考えや行動が親の期待とかけ離れていたとしても、寛容でなければなりません。

「何でもあり」を実践するためには、何ものにも依拠しないスタンスが必要です。「何でもあり」は、究極の自立と言えます。

何ものにも依拠しないというのは、すべてに依拠するということと同義です。つまり、世界のすべてに対して、身をゆだねるという感じです。

教育について言うと、次のような感じです。

わが家はホームスクーリングです。学校教育について、思いを寄せてみます。明治時代に、すべての国民に教育を与えるため始まった教育です。臣民教育であるとか、戦争遂行のための教育であるとか、ロボット養成機関であるとか、そういう批判があることは承知しています。そのいっぽう、たしかに、日本人の教養は飛躍的に高くなり、国の発展と近代文明を維持する役目を果たしています。

国民は、政府に欺され、牛耳られているかもしれませんが、そのいっぽうで、国家は国民に高度の社会福祉と安心・安全を提供しています。もちろんそれは、一朝一夕になったものではなく、明治時代、いや、もっと古くから、数限りない人々の思い、考え、行動、そして人生の蓄積によって現在があります。

学校教育は、明治以降の役人、学者が作り上げ、保護者、子どもたち、先生、地域住民がその仕組みを動かしつつ、練り直し、改善してきました。

戦争による破局を経た後も、反省、改善を繰り返し、今があります。今が完全でないからと言って、すべてを否定できるものではありません。

これほど無限の蓄積が、現在の学校教育をつくっているのです。その1人1人の人生に思いを寄せたとき、涙が止まらないほどの感動を覚えます。学校教育をつくってきたすべての人に対する敬意なのです。彼らに敬意を払うということは、学校教育に固執するという意味ではありません。それは、逆です。学校教育を固定観念から解放することで、彼らの思いをくみ取ることができるのです。表面的な形にこだわっていては、思いをくみ取ることなどできません。

あらゆるオルタナティブ教育も同じです。幾多の人々が、それらを作り上げてきました。その尊い思いをくみ取ること。敬意です。

世界のあらゆる人々に敬意をはらうことです。

私は、どんなに頑張っても、微々たる力です。しかし、無数の人々が、世界を創っています。私は、そこに生きさせていただいている。あれは○、これは×などと、どうして言えましょうか。

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