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[161]戦争の哲学

  

 

戦争は、いかなるものであっても、人類における最大の愚行です。

殺し合いという営みに、どんな肯定的な意味も見出しがたいです。とはいえ、古今東西、戦争は常に存在しました。戦争がない時代はなかったと言っていいでしょう。じつは、現代が、最も戦争の少ない時代なのかもしれません。

常に存在するということは、よほどそれが必要であるのかもしれません。そう考えることさえ、私には耐えがたい苦痛です。

しかし、あえて戦争が存在する意味を考えてみます。

前回、生物大絶滅について書きました。生物大絶滅は、どうも、生物の進化に、必要不可欠ではないかと思えます。進化とは、強くなることとイコールではありません。おそらく、進化とは、世界を美しくさせるように進んでいくことではないかと思います。美しいとは、言い換えると、調和なのかも知れません。

単独で存在できる生物がいるなら、それは横暴な独裁者です。他者をかえりみる必要はありません。愛も慈悲も謙虚さも美徳も助け合いも協調も不要です。

しかし、地球上には、そのような生物はいません。すべてが、他者と関わり合うことでしか存在できません。

生物大絶滅は、進化のために強いものを精算する営みなのかも知れません。

では、戦争もそのように考えることができるでしょうか。人類の歴史を振り返ると、無慈悲で暴力的な戦争でも、たえず、強いものが勝ち続けているわけではありません。人類の進化と成長のために、戦争が必要だったのかもしれません。

しかしそれは、戦争の勝者が正義だとか善だとか、そういう話にはなりません。殺し合いに勝者などいません。どちらも悲しみを背負う敗者でしょう。悲しみと憎しみと世の矛盾をあぶり出しつつ、人類は前に進んできたのではないでしょうか。

そうはいっても、悲惨な戦争において、人類が、犠牲を減らすための工夫をしてきた形跡が見られるのは、興味深いです。

インドの古代叙事詩である『マハーバーラタ』は、全インドを巻き込む戦争を描きつつ、「ダルマ=人のふむべき道」を描いています。戦争は、スポーツのごとく、厳格なルールに基づいて行われたようです。そのルールは、ダルマそのものです。それは、道徳です。いくら戦いに勝っても、ルールに違反すれば、敗者として責められます。ルールは絶対です。殺戮が最優先なのではなく、ルールに則った勝利が最優先なのです。これはつまり、犠牲を減らすための工夫ではないかと思われます。

中国では、孫氏の兵法が戦争論として有名です。孫氏は、戦うことなくして勝つことを最優先としています。だから、スパイ、謀略、欺しはOKです。いっけん、インドの戦い方と異なるようですが、犠牲を減らす方法として見れば、同じことにも見えます。

日本の武士道、西洋の騎士道など、戦争に一定のルールやマナーやしきたりが設定されてきました。同じ文脈に読めます。

いっぽう、蒙古帝国や十字軍などのように、殲滅戦(皆殺し)もしばしば存在しましたが。

近代では、クラウゼヴィッツが『戦争論』で予言したとおり、殲滅戦が主流となってきています。よく見ると、近代の殲滅戦は、近代文明の発展にリンクしているように見えます。人間の情を排除するシステム文明は、戦争の犠牲を極大化してしまう傾向があるかもしれません。

しかし、人類は、馬鹿ではありません。戦争が悲惨になればなるほど、それを改善するために、力を尽くします。

殲滅戦は、人類にそのことを気づかせるため、すなわち人類の進化のために、必要だったのかも知れません。

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