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創造の力

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[232]西洋から見た禅

  

 

日本の伝統文化は、「禅」という1文字に集約されるのではないかと思います。

伝統文化というと、茶道、華道、剣道、柔道、相撲、日本画、陶芸、日本建築、枯山水、古典文学、短歌、俳句、歌舞伎、能、祭、神道、神社、田園風景、里山、武士、忍者、城など、じつにバリエーションが広いです。

こういったものを、当事者であるわれわれ日本人は、それぞれが別のものだと考えがちですが、西洋は、ある共通したポイントを見るようです。

それは、どうも、「Zen」(禅)ではないかと思えてなりません。そして、禅を具体的に究めていくのが、「Tao」(道=どう)でしょう。

『タオ自然学』は、一世を風靡し、いろいろと物議をかもした書です。副題に「現代物理学の先端から『東洋の世紀』がはじまる」とあります。東洋の神秘主義の中に先端科学のヒントがあるという視点です。神秘主義といったって、われわれ東洋人には、さほど神秘ではなく、日常的な感覚なのですが。

その中で、「タオ=道」が、どう語られているでしょうか。

1. 精神世界も物質世界も、すべては1つから成る。
2. すべては、相互に関わり合っている。
3. すべては、共振している(コズミックダンス=絶え間ないリズム)

そして、「禅と日本文化」を西洋へ紹介した第一人者として、鈴木大拙さんがいます。鈴木さんが西洋人向けに英語で書いた書『禅と日本文化』では、禅をこう紹介しています。

1. 禅は精神に焦点を置くため、形式を無視する。
2. 形式が不充分、不完全であるほど、精神はいっそう表される。
3. 精神が極まると、無執着となる。
4. 絶対なる精神は、あらゆる自然にそなわっている。

西洋の方が、さまざまな場面で日本の伝統的な精神をリスペクトするとき、無執着、無欲、無我といった点を強調されています。

発展や成長には、「良くなりたいという欲」や「目標への執着」や「私というアイデンティティ」が欠かせません。西洋の発展は、禅の逆であるように見えます。

ところで、執着しないという概念は、自己矛盾をはらんでいるように見えませんか? 執着しないでおこうというのは、執着そのものではないでしょうか。無欲になろうとすること自体は、欲ではないでしょうか。無我をきわめていくのは、我ではないでしょうか。

それに、無執着、無欲、無我を突き詰めていけば、自分の存在を否定することにならないでしょうか?

難しい謎のようですが、「私の正体は、世界と一体であろうとしている」という原理から見れば、どうでしょう。

執着するとは、世界と一体になりたくないという思い。欲をもつとは、自分が世界あるいは他者のものを自分のものとしたいという錯覚。「我」とは、世界と違う自分があると妄想すること。

こう考えれば、すとんと納得できないでしょうか。西洋が作ってきた発展が、さらに大きな発展を生むためには、世界と一体であろうというミッションを自覚する必要に迫られている、ということではないでしょうか。

そうしてみると、『タオ自然学』や『禅と日本文化』で紹介された精神は、原理そのもののように見えます。

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