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[234]禅はなぜ難しいか

  

 

世界中にさまざまな宗教や信仰があります。

そのなかでも、日本人の信仰のあり方は、特殊なようです。キリスト教、イスラム教、ユダヤ教といった一神教は、信じる対象である神は、はっきりしています。聖書やコーランといった聖典も、はっきりしています。宗派によって聖典が違うことはありません。

日本の仏教は、八百万の神と同じように、宗派によってまちまちの仏を信仰し、聖典も宗派によってまちまちです。お釈迦さんが話したと伝えられる経典とは別に、日本の僧侶が著した文書を聖典とすることもあります。

神道にいたっては、聖典すらありません。定まった教義がないのです。

さらに、仏教が日本に入ってきたとき、神様も仏様もいっしょくたになって、八幡大明神という神様が八幡大菩薩という仏教の菩薩さんと同じだということになるなど、あらゆる神々が仏教と融合していきました。

どこの集落でも、お寺と神社の二本立てとなっていて、すべての地域住民は、近くのお寺の檀家であり、同時に、近くの神社の氏子であるという構造になっています。仏教も神道もいっしょくたです。

ようするに、日本の古来の宗教は何でもあり状態です。

近年では、正月に神社へ初詣、死んだら仏式で葬式、そして仏式の法事、クリスマスにはサンタクロースと、多くの日本人が仏教、神道、キリスト教をちゃんぽんにしてしまい、そのことにとくに違和感も抱きません。

これを西洋の人が見ると、奇っ怪に見えるようです。日本人の信仰はレベルが低いと。あんなに発展した国の国民が、あんなに未開な宗教を持っていると。

ところがどっこいしょ。西洋の皆様、禅や日本文化に興味をもたれますが、これらがそんなに未開ですか?

禅や日本文化に、高い精神性を感じるからなのではないですか?

高い精神性とは、宗教心そのものではないでしょうか?

日本人の精神性とは、あらゆる現実を融合していこうとする働きではないかと思います。日本人は、合理的であるよりも和を重んじ、集団を大事にします。○×をはっきりさせることは好みません。日本人のこういった国民性も、こんなところから生じているのではないでしょうか。

日本人にとって、善とか正義とかいうものは明確ではないのかもしれません。正義なんて、最近の言葉ではないですか。日本人が言う「義」は、絶対的な正義なんかではなくて、私たちみんなが成り立っていくようなあり方をいうはずです。

キリスト教やイスラム教なら、絶対の神様が、絶対の正義を定め、人々は、それを大事に生きていきます。環境によってゆらぐことのない絶対的な基準ですから、強いものです。

日本人の精神は、みんなが一体となるような「義」を大事にするため、頼りなく見えるかもしれません。でも、どんな状況が来ようとも、どんな文化に出会おうとも、それなりになんとか融合していこうとします。

つまり、日本文化を象徴する「禅」には、定義がないのです。禅とはこういうものであると、明確に説明することができないのです。もし、定義できるなら、禅と、禅でないものとを区別できるはずです。禅は、そういう類のものではありません。禅とは、概念ではなく、一体であろうとする働きそのものなのではないかと、私は考えています。

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