平凡な人が、創造の力を使って、人生を変えるプロジェクト

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創造の力

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[238]価値はどこから生じるか

  

 

「価値」という言葉が、よく言われるようになりました。

価値とは、人々が求めるもののことでしょう。人々は、モノやお金や権威を求めているように見えて、本当に求めているのは、モノやお金や権威を通して得られるものです。そこのところを間違えてしまうと、一生懸命頑張って、破滅的な成功をつかんでしまいます。

仏教に慈悲という言葉があります。慈悲をひもとくと、抜苦与楽(ばっくよらく)です。楽を与えることと、苦しみを抜くこと。慈は、楽を与えること。悲は、苦しみを抜くこと。

現代風に言うと、慈が幸せな気持ちを与えること、悲が問題解決でしょうか。たしかに、他人や社会への貢献とは、このどちらかしかなさそうです。

ところで、この両者の関係はどうなのでしょう? そもそも、幸せと問題解決は別の何かなのでしょうか?

キリスト教では、慈悲に当たる言葉は「愛」でしょう。2つの概念ではなく、1つです。

これらを参考にすると、問題解決と幸せはイコールなのであって、1つのものではないでしょうか。幸せは、問題がないところにあるのではなく、問題解決そのものが幸せです。問題とは、苦しみ、悲しみ、心配、不安、危機、怖れ、欠乏などです。

いままでは、こういった問題を解決するために、戦争をしたり、社会の制度を整えたりしてきました。

現在、求められている方向は、個人個人が自分の人生に責任を持って、自分の人生を選択し、自分の人生を生きることではないかと見えます。だれかが解決してくれるだろうという考え方が通用しにくくなってきています。国家や社会の仕組みがうまく動かなくなりつつあります。

自分の人生を生きるというのは、言葉で言えば何でもないように見えますが、この世で最も難しいことなのかも知れません。人は、責任を負うのを嫌がります。そして、自分の人生を失っていきます。だから、国家や社会に人生をゆだねます。

もし、多くの人が自分の人生を生きたなら、国家の戦争は生じることができるでしょうか?
国家に蹂躙されるということが起きるでしょうか?
被害者になり得るでしょうか?

自分の人生に責任を持たないことは、怖ろしいことです。でも、多くの人は、できない理由を一生懸命探し、不平不満を言って暮らしています。怖ろしいことです。

どんな人にも、必ず問題が生じます。自分の人生を生きている人にとって、問題はチャンスに見えます。ピンチをチャンスに変えるのではなく、もとからピンチなどではないのです。

自分の人生を生きていない人にとって、問題はピンチです。責任を放棄する度合によって、すなわち、不平不満の強さによって、問題の深刻さが変わります。問題そのものが深刻なのではなく、責任を放棄すればするほど解決困難さが強くなってしまうのです。ささいな問題にさえ、押しつぶされてしまいます。

価値とは、自分の人生を生きることへの目覚めではないかと思っています。

自分の人生を完璧に生きている人間は、まあいないでしょう。今よりもっと、責任を負い、自分の人生を生きる。そのように気づくことが、価値の正体ではないかと思います。

私が作りたいインターナショナルスクールは、その価値を得られるものにしたいと考えています。宗教は大事なものですが、神や仏に依存する心が生じるとすれば、好ましくありません。主役は自分自身です。

だから、私が作りたいインターナショナルスクールは、宗教的であるより、ビジネス的な色合いになるはずです。とはいえ、金儲け第一では、問題解決ができません。人間の社会を回して行くには、経済が必要です。それは、価値の創造によって生まれるものであって、価値から離れたお金は、虚構でしょう。

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