平凡な人が、創造の力を使って、人生を変えるプロジェクト

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創造の力

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[246]理解することは自分を強く持つこと

  

 

受験勉強のようなものでさえ、「理解する」ことで、驚くほど効率的に習得できるというお話をしました。

ここで言う「理解」とは、一般に言う理解とは違います。自分の考えや意見や、好き嫌いといった感情を、横へ置きます。自分の視点ではなく、相手の魂に寄り添うような感覚です。相手の表面的な言葉ではありません。

そんなに大げさに考える必要はありません。表面的な言葉にとらわれてしまうのは、自分の視点で見ているからです。それは、相手を理解しようという営みではありません。自分の視点を離さない以上、どんなに頑張っても理解ではありません。それは、相手を理解するのではなく、相手に自分の考えを押しつけようとすることです。

理解するということは、相手の言うことに賛成や同意をすることではありません。単に理解するだけです。だから、相手の意見がいくら私の意見と異なっていても問題ありません。

相手とは、目の前にいる人でもいいです。その人の言うことを聞く。じっと聞く。
目に前にいるけれど、何も言わない人でもいいです。たとえば、集団の中にいて、私以外の人々を理解するようなとき。
目の前にもいない人でもいいです。姿が見えず、言葉も聞こえないけれど、思いをはせることは可能です。
見知らぬ人々でもいいです。311のあと、遠い国々の人々が、私たちの痛みを分かち合おうとしてくれたではありませんか。
出来事でもいいです。
自然でもいいです。
地球でもいいです。
理論や法則でもいいです。

どんな対象でも、理解することは可能です。才能やスキルが必要なわけではありません。理解することができない人など存在しません。

このような理解は、「無我の境地」と言えるかも知れません。「私」を滅し終えた悟りの境地・・・

いや、違うでしょう。「私」が不要ならば、私たちは、何のために生まれてきて、何のために人生を生きているのでしょう?

「私」が不要となるような理解の仕方ならば、誰が理解しても、「私」を捨てるのですから、同じになるはず。無機的な理解です。

これを理解とは言いません。理解とは、人間くさい営みです。コンピュータがするような「理解」ではありません。

理解するために、「私」を横へ置いておくことが必要です。しかし、私を捨ててはいけません。「無我の境地」とは、「私」がなくなるのではなく、「この世で私が一番偉い」わけではないと知ることです。「私の視点」を手放せない人は、私が世界で一番偉いと思っています。だから、その視点でしか見られません。王様マインドです。

「そんなことない!」って反論しますか? なら、あなた以外の人々、自然、出来事に対して、敬意を持てますか? 自分こそが尊敬されるべきだと思っていませんか?

たぶん、あなたは、自分が一番偉いわけではないと、頭では知っています。でも、それを認めたくない。なぜなら、自分の人生を自分で生きることが怖いからです。自分の人生に責任を持つことが怖いからです。だから、自分がこの世の王様でありたいと、心の中で願っています。家来たちが、責任を負ってくれるでしょう。人生のいいとこ取りが出来ると期待しています。責任を持たず、良いことだけ自分のものにできると。

自分をいったん横へ置いて、他人の言葉を理解することは、難しいはずがないのに、難しいです。

まず、他人(世界)を理解します。私の中に、他人(世界)が入ってきます。素直に理解できたらなら、私の中に、他人(世界)が溶け込んでいます。そして、横に置いておいたはずの「私」は、その他人(世界)とかち合います。そうです。かち合うことで、さらにいっそう、高次の理解へと進むのです。このプロセスは、すでに創造の領域でしょう。

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