平凡な人が、創造の力を使って、人生を変えるプロジェクト

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創造の力

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[272]飢えた虎への捨身供養

  

 

仏教には、たくさんの寓話があります。

その中の一つ。

むかしむかし、インドのあるお城に3人の王子がいました。ある日、王子たちが森へ遊びに行くと、母虎が飢えて倒れており、そのそばに虎の赤子が数匹いましたが、母虎は飢えているため、乳も出ません。このままでは、母虎は自分の子を食べて生き延びるか、母子ともに死んでしまうか、どちらかです。末の王子は、兄たちが帰った後も一人で森へ残り、虎を助けようと決心しました。虎の横に寝てみましたが、母虎はあまりに弱りすぎていて、王子を食べることができません。そこで、王子は崖に登って、身を投げ、母虎のすぐ横へ血を流しました。母虎は、王子の血をすすって、だんだん元気を回復し、王子を食べて、歩けるようになりました。それを王や王子たちが知り、末の王子の、生き物を慈しむ心を偲んで、良い政治を行ったとのことです。

お話はお話として、受け止め方が難しいです。

これを「善いことだ」とされたんでは、人間は、動物たちのエサとなれとの解釈もありえます。それはいくらなんでもおかしいだろうということで、生きとし生けるものを全力で大事にすることなのだとか、人々の幸せのために命を惜しまぬ覚悟が必要だとか、いろんな解釈があります。

この王子の行為は、どうあろうとも、自殺でしょう。仏教は、自殺を戒めます。どうも、解釈に苦しいところです。自殺を美化することは、危険でもあります。権力者に悪用されたら、怖ろしいことになります。

私は、このように解釈したいと思います。

王子は、自殺ではありません。虎に襲われて死んだのです。王子は、不慮の死を遂げたのです。遺族は、まずは、虎を憎みます。そして、悲しみます。やがて、時とともに、なぜ王子が死なねばならなかったかと問うようになっていきます。そして、王子がこの世に生きたことの意味を問うようになっていきます。悲しい死ではあるが、王子の命が、遺された者たちに気づきや学びを与えていると理解しようとします。

そのプロセスを描くと、このような物語になるのではないでしょうか。

仏教には、このように、不可解な命のささげ方がたくさんお話として存在します。

薬王菩薩が、自分の身に油を塗って、火をともし、世界を照らし続けたというお話もあります。

そのまま読んでしまうと、焼身自殺であり、世界を救うこととは関係なさそうに見えます。これを文字の通りに実践された僧侶もいるようですが、まさか、それが仏の教えではないでしょう。

いっぱんには、我が身を犠牲にして法を広めることの功徳が説かれていると解されているようです。

それはそうかもしれません。ところで、我が身を犠牲にするとは、「死」を意味するのでしょうか? いや、それはぜったいに違うでしょう。死を推進する宗教など、あるはずがありません。

ぎりぎりのどたんばで、死を恐れぬ覚悟が道を拓くということは、あるでしょう。

私は、別の解釈を考えます。

人間は、必ず死にます。悲惨な死であろうと、大往生であろうと、いつか、人生を終えます。とりわけ、悲惨な死の場合、遺族はたいへんつらいです。どうしても、故人が意味ある生だったと理解せずには、耐えられません。

王子も、薬王菩薩も、普通の人間、すなわち凡人の姿ではないでしょうか。どんな人間でも、この世に生まれてきたからには、世界と何らかの関わりを生じます。どんなことをして、どんな生涯であろうとも、他の人々に、気づきや学びを提供します。

私たちは、人生をこのように理解すべきではないでしょうか。凡人が行った行為が善なのではなく、この世に生きたこと自体、世界を救う意味があると、考えられないでしょうか。

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