平凡な人が、創造の力を使って、人生を変えるプロジェクト

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創造の力

創造の力

[274]創造の要

  

 

創造という言葉は、最近、よく語られます。

それだけ、既存のパラダイムが通用しなくなってきたということでしょうか。そのわりに、どうすれば創造が可能であるか、ということに踏み込んで語られているのを、まず見かけません。

私が実現したいのは、まさにそこなのです。

スキルとか、資金とか、権威とか、人脈とか、そういう何かがあって、「どうやったからいいかわからないこと」をどうにかできれば、それも創造でしょう。やはり、創造といえど、元になるものは必要であって、エリートほど創造に近いと、考えられがちです。

エリートが何かをなし得るのは、既存のパラダイムが有効である範囲においてではないでしょうか。新規のパラダイムでは、そもそもエリートという価値観が価値たり得ないはずです。

真の創造に必要なものは、スキルでもなく、資金でもなく、権威でもなく、人脈でもありません。知識でもありません。

創造が語られるとき、こういったものが必要であると前提されているケースが非常に多いです。

過去に、創造が生じた事例、そして、昔話や伝承や神話の形で古くから伝えられている人類の知恵を俯瞰してみると、あることに集約されていきます。

それは、競争原理ではない原理です。

すなわち、自分が成功することが、他人を犠牲にしたり、他人に損をさせたり、他人を不快にさせたりすることなく、自分の成功が、他の人々を幸せにするという原理です。

20世紀は、競争原理が席巻する時代でした。それ以前も、競争原理が主眼だったでしょう。

しかし、創造が生じるときは、必ず、競争原理ではない原理があります。競争原理は、絶対に創造と相容れません。

人間は、競争原理だと思っていても、世界の自然な姿は、競争原理ではありません。競争原理を越えたところの、普遍的な原理を、創造原理と呼びたいです。創造原理が特殊なのではなく、競争原理が虚構なのです。

世界は、ふつうに創造に満ちているのに、人間は創造を特別難しいことだと感じます。それは、競争原理という虚構にとらわれているからです。

創造原理は、「みんな仲よくお手々つないで」というものではありません。差別や苦しみ悲しみ、争い、憎しみ、嫉妬、悪事に満ちています。前回書いたように、行為と意味は別です。創造原理は、極楽浄土を言うのではなく、日常的なこの世そのものです。

この世界が、どんなに汚く醜いものであっても、すべての存在は、世界を救う意味を持ちます。

競争原理を越える価値観は、そこにしかあり得ません。

世界を競争原理で見る限り、絶対に創造は生じません。

マザーテレサ、ガンジー、エジソン、アインシュタイン・・・まだまだ偉大な方々は、数限りなくおられます。彼らは、誰と競争したでしょうか? 彼らの業績が、誰を不幸にしたでしょうか? そもそも彼らは誰かに勝とうとしたでしょうか?

私は、創造の力を、世界に差し上げたい。私が差し上げるのではなく、もともとどこにでもあるものを、だれもが使えるように、示したい。それが、私の人生です。

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