平凡な人が、創造の力を使って、人生を変えるプロジェクト

モモナナじぇーぴー

メイン
創造の力

創造の力

[288]信じることの危うさ

  

 

競争原理に対する創造原理は、合理的な考え方に相容れないものです。はるかかなたの、達成不能なミッションだけ想定し、そこへ到達する経路は考えないというのですから。

これは、スピリチュアルでもあります。証明不能で、信じるしかないので、宗教的でもあるかもしれません。

「信じる」というのは、人間が想定外のパワーを発揮できる鍵です。論理や科学をはるかに越えてしまう力があります。

その一方、信じるというのは、怖ろしく危険でもあります。カルト、テロ、全体主義などは、信じることがエスカレートしていった悲劇です。多くの宗教は、そのような問題を生じていません。平和的な宗教と、カルト宗教との境界は、どこにあるのでしょうか? いずれも信じることの大切さを説きます。明確な境界が、どこかにあるのでしょうか?

カルトは、宗教だけではありません。どんな内容にしろ、信じることを純化させると、カルト化する危険があります。

「信じる」ことは、主観的であって、客観的な証明はできません。検証も再現も不可能です。検証が不可能なので、信じる行為は、一方通行となりやすいです。修正も、停止も、できにくくなってしまいます。信じることは、修正や停止を「悪」としてしまいます。

一方、信じる力で偉業を成し遂げた方々も、多く存在します。彼らは、いったい、何を信じたのでしょうか?

宗教にしろなんにしろ、信じるには、信じる対象が必要です。宗教ではそれをわかりやすく、本尊(神や仏)と教義(聖書とか経典とか)で表しています。となると、他の本尊や教義はダメなのか?ってことになってしまいます。たいがいの宗教では(たぶん、すべての宗教では)、それ以外の本尊や教義を信じてはダメだと説きます。そりゃまあ、他のものを信じてもいいという信じ方はないでしょう。

ここに怖さがあります。

そのような信じ方が良いのかどうか、間違っていないかどうか、足りないところがないかどうか、検証することができないし、検証しようとすれば疑いを持つことになり、「信じ方が足りない」とされてしまいます。

こういう偏狭な信じ方が、人類に多大な不幸をもたらしてきました。近代は、その反省からも、検証不能なものを排除し、検証可能なものを蓄積していきました。それが科学です。霊魂や輪廻が実際にあるかどうかは関係なく、検証する方法がないので、「科学的」ではありません。神も仏も科学的ではありません。心理学として検証可能でないスピリチュアルなテーマはすべて科学的ではありません。創造も、科学的ではありません。

創造は、今存在しないモノ、今わからない何かを創り出すことですから、検証しようがありません。でも、不思議なことに、行政も科学も、創造という言葉を多用します。

検証可能な科学だけですべてを解決できるわけではないと、多くの人が考えているのでしょう。あえて、科学的でない部分を確保しようという意思の表れでしょうか。

検証可能でないなら、「信じる」しかありません。しかし、それは、非常に危うい。

過去に、創造を成し遂げた人々から、学んでみましょう。彼らは、何を信じたのか。どうも、特定の本尊や教義ではなさそうです。彼らの多くは、何らかの宗教を持っていたようです。彼らは宗教を持っていたが、彼らは宗教を越えるものを信じていた。私には、そう見えます。

宗教を越えるものとは、何でしょうか?

世界です。

宗教は、世界ではありません。世界の一部です。なぜなら、「その本尊や教義でないもの」つまり「不信心」や「別の信心」を認めているからです。世界には、「世界でないもの」は存在しません。

前へ前へ  TOPTOP  次へ次へ