平凡な人が、創造の力を使って、人生を変えるプロジェクト

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創造の力

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[289]危険のない信仰とは?

  

 

信じることは、偉大な力を発揮する一方で、非常に危険です。信じることは、科学的ではありません。しかし、創造とは、信じることから生じます。

となると、信じることから危険を取り去ることが不可欠です。火種を抱えたまま、創造を推進することは、危険きわまりないことです。

過去に偉大な創造をなし得た人々は、宗教を持っていたとしても、宗教を越える信仰を持っていました。つまり、世界への信仰です。どんな宗教にも、「その宗教でないもの」が存在しますが、世界には、「世界でないもの」が存在しません。

ところで、宗教と世界が別の何かであるなら、宗教を持ちながら世界を信じるのは、矛盾しないでしょうか?

これも、過去の偉大な人々が語った言葉を見ていくと、宗教は世界になり得るが、世界は宗教になり得ないという法則が見えてきます。

ある宗教は世界の一部です。その宗教は、世界にまるごと含まれています。世界には、その宗教でない部分がたくさんありますが、その宗教には、世界でない部分はありません。

たとえて言えば、人類と日本人のようなものでしょうか。日本人であれば、すべてが人類です。でも、日本人でない人類はたくさんいます。

日本人が、日本人は最も優れた人種なのだ、と「信じる」なら、怖ろしいことになります。もちろん、そんな検証はできないので、単に信じているだけです。これがどれほど怖ろしく、かつ、バカげたことであるかは、歴史がイヤと言うほど証明しています。

だからといって、日本人であることを消してしまう必要はありません。「日本人が最も優れているのだ」という信心を持たなければいいのです。他の民族、国民と、同じ人類なのだと信じればいいのです。

宗教は、このような性質を持ちます。

カルト化していく宗教は、「日本人が最も優れているのだ」と信じているようなものです。平和的な宗教は、他の宗教も同じ世界なのだと認めています。となると、必然的に「信じる力」は弱くなりそうです。

カルトや過激な宗教ほど、強い力を発揮するのは、道理なのでしょう。

信じる対象を、「日本人」とか「宗教」とかでなく、「世界」に向けては、いかがでしょうか。世界を信じることと、ある宗教を信じることは、矛盾しません。世界を信じることと、日本人であることへの誇りとは、矛盾しません。

過去の偉大な人々は、このような信仰をもっていたと見えます。

世界を信じるならば、そこに競争原理は存在しません。世界を信じるならば、「私」「私の宗教」「私の国」「私の地域」は誇り高く輝きます。

世界を信じるならば、絶対的な善悪の基準はありません。ある局部を見て、「すべきかどうか」という判断はありますが。

世界を信じるとは、「世界を救うというミッション」に他なりません。世界を救うことは、永遠に完成しません。だから、絶えず、救うべき対象が世界にあり続けます。

私がどんなに「いいこと」をしても、完成しません。救うべき部分が必ずまだまだあります。だから、世界を救うにはこうすればいいのだ、などという正解はありません。

私なりに精一杯考え、世界を救うためにできることをやっていく。それでも救うべき部分がたくさんある。また、考え、行動する。また、考え、行動する。世界を救うことは完成しないので、常に、立ち止まり、世界を見渡し、自分がやってきたこと、やっていることを検証する必要があります。

あれ? 信じると言いながら、「検証」というプロセスがありますね。

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