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[290]検証可能な信仰?

  

 

信仰とは、信じることなので、検証は不可能です。むしろ、検証というプロセスは、信仰を損ねることとなり、信仰への障害だとみなされることがふつうでしょう。

これは、良いこととは思えません。検証に堪えられないような信仰は、危ういです。

検証とは、当初設定した目標や目的にどの程度近づいたか、または不足がどこにあるか、または、修正すべき点がどこにあるかを振り返ることです。危うい信仰とは、信じることが目的となっているので、検証しようがないのです。しかし、これは、カルトへの道につながります。

神や仏といった、超越的な存在は、証明できません。信じるしかありません。だから、検証という行為を、神への冒涜と言います。危うい信仰です。

もし、神や仏が絶対的な存在であるなら、どのような検証にも堪えうるはず。

神を試してはいけない、という教えもあるようです。それはそうでしょう。試すことのできないものを試すなど、そもそもが自己矛盾です。

試すべきは、「私の人生」でしょう。それが検証です。なんのために検証が必要かというと、幸せを求めて生きるためです。そうすると、「私が求める幸せがどのようなものか」ということが必要ですし、自分がはたしてそちらへ向けて進んでいるかどうかという検証が不可欠です。

なんとなく、流されながら生きて幸せをつかむのは、あり得ない話です。

幸せとは、そうもたやすく実現できるわけではありません。安易な幸せは幸せではありません。

なぜ幸せがたやすくないかというと、私たち自身の中に、幸せへの道を阻む機能があるからです。それは、「難しい」「できない」「わからない」という感情です。

こういう感情に支配されたまま、幸せをつかむことはありません。そして、このような感情からスタートすれば、特別なスキルやお金や権力が必要であると錯覚したり、他人に勝つことが必要であると勘違いしたりしてしまいます。すると、ますます幸せから遠ざかります。

検証無しの人生は、このような負の感情が自分を導いてしまいます。

さて、私は宗教や信仰について書きたいのではありません。創造原理について、書いてきました。創造原理という呼称は私のオリジナルで、競争原理を越えることを想定しての用語です。

「創造」は、何もないところから何かを生じることなので、検証しようがないはずです。たしかに、競争原理にとらわれている日常では、目標を立てて実行し、検証し、改善する、いわゆるPlan→Do→Check→ActionのPDCAサイクルが有効と考えられていますが、創造には適用できません。

途中の経路が見えないからです。

競争原理は、現時点を出発点とするのに対し、創造原理は、未来の時点を出発点とするパラダイムです。途中の経路はわからないし、計画や戦略の立てようもありません。

じゃあ、宗教とどうちがうのか、という疑問がでてくるはずです。未来を出発点にするのであれば、「信じる」しかありません。

宗教は、ある本尊や教義を信じます。

いっぽう、創造原理は、世界を信じます。どんな宗教も、世界を信じることは可能ですが、世界は宗教にはなりません。世界には、本尊も教義も、絶対的ではないからです。

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