平凡な人が、創造の力を使って、人生を変えるプロジェクト

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創造の力

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[294]森の作業と、創造

  

 

ちょっと前までは、森というと、経済の対象でした。農業が、畑で野菜や米を収穫するように、森で木材を収穫していました。木材は、材木として、炭として、薪として、椎茸の原木として、売れていました。

20世紀の終わりごろから、その構図が崩れ、森が経済価値をまったく持たなくなってしまいました。

森は、原生林のように全くの自然状態のものもあれば、適切に人間が関わることで、新陳代謝が活発となり、自然の機能が増進するものもあります。これを里山と呼んでいます。里山は、日本が誇る循環型社会のモデルでもあります。

自然は、征服か、放置か、という二者択一だけでなく、人間と自然が関わることによってさらに良くなるというものでもあります。人間の体で考えればいいでしょう。健康とは、どのような状態でしょう? 適切に運動し、何らかの活動や仕事に精を出し、泣いたり笑ったりしながら暮らしていくことではないでしょうか。自然も同じです。人間の体と同じく、自己修復機能や、新陳代謝機能があります。適切に木を切ったり草を刈ったりすることが、森が活性化することでもあるのです。

森には、人間が杉や檜を植林した「人工林」と、自然に草木が生えてきた「自然林」があります。手入れが必要なことは、どちらも同じです。日本の自然林では、落葉広葉樹が中心です。秋になると、美しく紅葉し、落葉し、土を豊かにします。落葉広葉樹は、いくら切っても、切り株から新しい芽がどんどん出てきます。切らずに放置すると、木が大きくなって、森がうっそうとしてきて、他の植物が生長しにくくなっていきます。動物も暮らしにくい場となります。森の活力が低下し、災害の危険も増していきます。

近年は、地球温暖化対策や環境保全として、森林保全活動が推進されるようになりつつあります。経済の場としての森が、意味を変えてきたのです。

森林保全活動といっても、担い手がいません。経済が回らないので、公費を投入し、公共事業として構築せざるを得ません。しかし、広大な森を公共事業として整備するのが、果たして持続可能であるかどうか・・・

私たちは、京都府南部の500メートルの山の上の集落「童仙房」で、企業や市民団体と森林保全活動を継続しています。公費に頼らない森林整備は不可能でしょうか? 「解決困難な問題」がここにもあります。

森林整備とは、適切に木を切っていくことですが、ときどき素人が手作業でやるようなペースでは、ぜんぜん追いつきません。が、何年も活動を続けるうちに、少しずつ活動が変容してきて、当初は思っても見なかった「価値」が見えてきました。

自然とは、ほんらい創造そのものです。人間が「創造的に」自然に関われば、人間と自然が創造という相乗効果を生じるのでないだろうか。

もちろん、「破壊的に」関わっては相乗効果とはいかないでしょう。

自然を征服しようという関わり方は、破壊的です。人間の都合で自然を収奪し利用しようという関わり方も、破壊的です。里山文化は、森への感謝を伴います。感謝の心は、相手の側に寄り添うことです。つまり、森、自然の声に耳を澄まし、自然の心に寄り添うということになります。スピリチュアルな言い方になりますが、自分中心というパラダイムを、世界中心というパラダイムに変えることでもあります。

自分中心というパラダイムからは、創造は生じません。競争原理あるのみです。

世界中心というパラダイムは、「私」を消し去ることではなく、「私」を世界に従わせることでもありません。それは競争原理的な発想です。そうではなくて、世界がどれほど創造に満ちているかを「私」が知ることです。

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