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創造の力
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創造の力[295]破壊ならざる破壊創造には、破壊がつきものです。何かが生まれるには、何かが壊れる必要があります。人間はすべて、生まれて死んでいきます。不老不死ではありません。すべての生き物は、いつか死にます。世界のあらゆるものは、生住異滅のサイクルが必ずあります。 これは、世界がいかに創造に満ちているかという証ではないでしょうか。 人間が、何かを創造しようとするなら、何かを破壊する必要があります。創造と破壊は、裏表の関係です。 古代インドでは、豊かな世界観がありました。今も、ヒンドゥー教として伝わっていますが。3人の最高神がいます。創造神ブラフマー、維持神ヴィシュヌ、破壊神シヴァ。最高神が1人でなく3人とは、一神教の感覚では理解しにくいでしょうか。この3人は、生住異滅を表しています。破壊を、悪魔でなく神がつかさどっています。 他の宗教では、破壊をつかさどるのは、悪魔か魔王の役割です。神と、魔。創造と破壊ではありませんか。世界は、神だけで成り立つのではありません。もっとも、神が怒り、人間に罰を下すという「破壊」も説かれますが。 世界は、創造に満ちていますが、同様に、破壊にも満ちています。 人間は、創造に喜びや幸せを感じますが、破壊には苦痛や悲しみを感じます。生命は、おおむね破壊を避けるように本能として設計されています。 私たちのこととして考えてみましょう。自分の身に「破壊」が起きることは、つらいと感じます。だから、「破壊」は、自分でない何か、あるいは他人に受け持ってもらい、自分は創造を取りたいと考えます。これが競争原理です。 創造は必ず破壊を伴うので、世界は競争原理であると考えることも道理がないわけではありません。 しかし、創造と破壊は裏表にあるので、破壊を避けて創造だけとることは現実にはできない話です。だから、破壊を他人へ押しつけた時点で、創造も去っていきます。 では、破壊を自分が請け負えば良いということでしょうか。そうなるでしょう。でも、苦しみや悲しみは勘弁して欲しい。 よくよく考えてみましょう。破壊とは、苦しみや悲しみしかないのでしょうか? そんなことはありません。「心地良い破壊」があり得ます。 森林整備の話に戻ります。 放置された森は、木がうっそうと茂り、草ボウボウです。日が差す程度に木を切り、草を刈ります。そのとき、「ほどほどという適切さ」を、森が教えてくれます。あ、またスピリチュアルな言い方ですね。じっさいは、森がしゃべるわけはないので、人間が感じているに過ぎないのですが。 破壊的に関われば、森は教えません。つまり、人間は、「ほどほど」を感じることなく、やり過ぎてしまいます。自然の自己修復機能、新陳代謝機能を越えてやっちゃいます。それでも自然は修復していくでしょうが、ダメージが大きすぎます。 「ほどほどという適切さ」は、心地よさとして感じます。人間が心地良く感じる森林整備が、おそらく森にとっても最適なのではないかと見えます。苦痛も悲しみもダメージもなく、幸せな破壊です。 私たちは、この「幸せな破壊」という微妙な状態をなかなかうまく作れません。しかし、森では、自然とできてしまうのです。 |