平凡な人が、創造の力を使って、人生を変えるプロジェクト

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創造の力

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[306]選択の基準

  

 

選択には、とてつもない力があります。それこそが創造でしょう。

しかし、選択には、困難を伴います。それを克服するには、選択の基準が必要です。基準がなくては、そもそも選択など不可能です。

21世紀は、個人が主役の時代だと、よく言われます。そうであるなら、私たちひとりひとりが、自分の人生に責任を持ち、人生を選択し、主体的に世界へ参加することが不可欠でしょう。

でも、私たちの多くは、人生に責任を持つことを怖れます。そして、自分の人生なのに、誰かに選択してもらおうとします。そして、自由を失っていきます。

20世紀までは、そんなに自由を追求しなくても、国家がそれなりに生活を作ってくれていました。共産主義や独裁政治や全体主義がいかにひどいものであろうとも、ひどいなりに私たちの生活を作ってくれていました。

ところが、21世紀になると、良いも悪いも、国家が機能しなくなりつつあります。それは、世界が国家の枠を越えてつながり始めているからです。

今までの国家に変わる枠組みが、世界規模でできるかもしれません。でも、従来の国家と比べ、世界はあまりに多様です。やはり、私たち個人がある程度の主体性を持って生きることは避けられなさそうに思います。それを、世界が、おおらかなプラットフォームでつないでいくでしょう。従来の国家が消えることはないと思います。しかし、役割を大幅に縮小するでしょう。

福祉、教育、医療、社会インフラなどの「社会機能」を、これまで通り、国家が担い続けられるでしょうか? そうするなら、国家が信用を持ち、財政力を持つ必要があります。でも、人やモノや経済が国家を越えて行き交うようになると、国家はどうやって国家たり得るでしょうか? 国家が提供する法律や行政ですら、障害となりかねません。

これからは、「社会機能」の担い手は国家ではなくなるかも知れません。とすれば、個人でできることは個人で、あるいは企業やNPOかが、担い手となるのでしょうか。

これは、すべて自己責任という競争原理では不可能な社会です。競争原理が成り立つのは、国家が基盤を提供するからこそ、その上でゲームを演じることができるのです。基盤が提供されないなら、競争などしている余裕がなくなります。

大富豪と言ったって、その富は、国家が保証するがゆえに「富」たり得るのではありませんか? お金は、国家の保証がなければ意味をなしませんよ。

個人が人生を選択する世の中、良いか悪いかは、その人次第でしょう。『選択の科学』でも示されているように、選択は絶対的善になりません。選択を生かせるかどうかは、やはり、選択の基準を持っているかどうかによるはずです。

どのジャムを選ぶか、といった程度の選択ならまだしも、人生を左右するような選択となると、その基準はそれなりでなければうまくいきません。

選択の基準は、「世界を救う」しかないはずです。ところが、多くの人は、世界を救おうとすると、自分が犠牲にならねばならない、つまり、自分が損をすると考えてしまいます。競争原理ですね、これは。

だから、世界を救わず、自分だけがよくなるような選択を考えようとします。その結果は、選択の代償を背負い、選択によって苦しむこととなります。すると、選択そのものを避け、自由を手放そうとする。元へ戻ってしまいます。

ほんとうに、世界を救うと、損をするのでしょうか?

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