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創造の力

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[335]どたんば哲学と創造

  

 

私は、自らのどたんば状態を何とかしようと、成功哲学などを研究しました。

どたんば状態とは、できることをやり尽くして、どうすることもできなくなった状態です。ふつうなら、破滅です。脱出する方法がないのですから。しかし、多くの成功哲学は、どたんば状態から始まっています。

どたんば状態でできることはもはや何もありません。なのに、その状態を脱出し、あまつさえ、大きな成功を勝ち得てしまう。それは、いったい何なのか。奇跡か、魔法か。特殊な幸運であって、マネしようとしてもしょうがないものなのかもしれません。

しかし、彼らは、あるひとつのシンプルな原理を、異口同音に言っていると、私は気づきました。

「世界を救うというミッションをもって、今、目の前にフォーカスする」という原理に、私はどたんば哲学と名づけました。

私たちは、どたんば状態に陥ると、これの逆を必死にやろうとします。

他人などかまっている場合ではない。ましてや、世界など、私が破滅しては何の意味もない。まず、私が救われなければならない。そして、家族を救わねばならない。余裕ができてから、他人のことを考えれば良い。世界云々など、金持ちの道楽だ。

そして、どたんばの私は万策尽き、できることは何もなく、持てるものも何もないので、私からできるだけ遠い何かを探そうとします。破滅寸前の私から遠ければ遠いほど、可能性があるかもしれないと思います。そして、手当たり次第に、いろんな情報に飛びつきます。まるで、無節操。とうぜん、ものにはならず、ますます深みにはまり、ますます破滅へ近づき、ますます焦り、ますます私から遠い情報を探そうとします。

魔法を使い、奇跡を起こした人々は、必ず、その逆をしています。

考えてみれば、当たり前なのかも知れません。

私たちは、1人では生きられません。多くの人たちと、支え合って、助け合って、ようやく生きていけます。他人に与えることなく自分が得ようとするのは、自然の摂理に反しています。どうも、競争原理は、現実の世界ではないのではないだろうか。

そして、私たちは、自分を小さな存在、無力の存在と考えがちですが、私が私の力を使わず、私の望む成果を得ようとするのは、乱暴な思い込みではないのだろうか。私の持つ能力、私にめぐってくる縁、私が生きている周囲の環境や状況、私が生きてきた過去。そういう、私そのものしか、私には使えないのではないだろうか。

宗教はさておき、どたんば哲学は、きわめてふつうの、自然の摂理ではないのだろうか。どたんば状態からの脱出は、自然の摂理に従うことで可能となるのではないだろうか。

成功が特殊な状況なのではなく、どたんばが自然の摂理に逆らった特殊な状況なのではないだろうか。

私に何かできるとすれば、これしかなさそうに思えます。

では、どたんば哲学にそって行動すれば、失敗なく、必ず成功できるものなのだろうか。どたんば哲学が自然の摂理であるなら、どたんば状態だけで有効なのではなく、人生のすべて、世界のすべてで有効なのだろうか。

どたんばは、何もなくなった状態です。それが何とかなるなら、それはまさに創造なのではないだろうか。

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