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[347]生きる意味の再発見

  

 

前回、マズローさんの5段階(+1)の欲求モデルをお話ししました。

人間は、なぜ生まれてくるのか、なかなかわかりません。なぜわからないのかというと、「私」を中心に見ているからです。私は、しょせん、生まれてから死ぬまでの存在です。

しかし、人間は(というか、どんな生物も、どんな存在も)絶対に完璧ではありません。つまり、どんなに偉い人であっても、自分一人で存在し、生きていくことは不可能にできています。現実を見れば、私は世界中の人々、世界中のあらゆる存在と持ちつ持たれつしながらでしか、存在できません。

だったら、私がなぜ生まれてきたのかという問いには、世界から私だけを切り離して考えたところで、非現実的な空想にしかならず、答えは見出せません。

私たちは、というか、生物はすべて、親からしか生まれません。自分の人生は生まれてから死ぬまでのものですが、「生まれる前」とは、前世や神様を持ち出さなくても、遙か昔から途切れることなく連綿と続いてきた生命の歴史なのです。壮大なリレーではありませんか。

そして、今生きているこの世界でも、無限の多様性のうちの1つなのです。世界は、多様であることで成り立っています。私がいてもいなくても世界には関係ないように見えるとしても、私が世界の多様性を担っていることは事実です。多様性には、優劣も貴賤も区別しようがありません。

つまり、私は世界における多様性の1つであると理解することが、生まれてきた意味であり、生きる意味だと言えるはずです。

アウシュビッツの強制収容所での過酷な日々を生き抜いた体験を記した『夜と霧』で、ヴィクトール・E・フランクルさんは言います。

「ここで必要なのは、生きる意味についての問いを百八十度方向転換することだ。わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることが私たちからなにを期待しているかが問題なのだ、ということを学び、絶望している人間に伝えねばならない」

彼は、「私」と「生きること」を対置しています。「生きること」は私でありながら、「私」ではない何かということになります。意識としての私でない「(私が)生きること」です。「生きること」ですから、私とは違う存在をいうわけではなさそうです。彼の言うところは、「私中心ではない視点」こそが大事だと言いつつ、「私以外の誰かの言いなりになるわけではない。あくまで私が主体なのだ」ということのようです。

じつはこれは、フランクルさんの新発見ではなく、昔々から、世界中で様々に伝わっている人類の知恵が、まさにこのことを示しているのです。フランクルさんは、それを体験によって再確認したのです。真理は1つであって不変であっても、それを生かすのは、まったく個別です。1つの真理から、人によって異なった現実が生じます。

真理が1つであるがゆえに、世界は無限に多様でありえますし、人もそれぞれがそれぞれの人生を歩いて行けるのです。

自分を中心に見て、「生きる意味」を見出せないのは、きわめて当然のことなのです。でもそれは、自己犠牲をはらって他人に尽くさねばならないという話ではありません。

フランクルさんがいう「生きる意味」とは、真の意味での神や仏なのかもしれません。または、『7つの習慣』のスティーブンさんが言う「(心の中の)ボイス」かもしれません。または、セルフイメージとか、深層意識とか様々に呼ばれているものが、そうなのかもしれません。それは、自己中心的な自分ではなく、世界としての自分なのです。

前回お話ししたマズローさんの第5の欲求は、「欲しい」ではなく「与える」です。そして、第6の欲求は、まさに「世界としての自分」そのものです。

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