平凡な人が、創造の力を使って、人生を変えるプロジェクト

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[351]「私はダメだ」という価値

  

 

世の中には、体や心にハンディキャップのある人がおおぜいいます。彼らは、たいへんつらい思いをしながら生きているのに、私たちがハンディキャップを呼ぶ言葉でよけいつらい思いをさせてしまうことに思いを至らせ、露骨な表現が「差別用語」として封じられ、「障害」も「障がい」の方がいいのではないか、あるいは「ハンディキャップ」といった方がいいのではないかなどと工夫されてきました。「○○の不自由な人」という言い方もそうですね。最近では、「支援を必要としている人」という言い方もあるようです。

多くの人が自分の力でふつうにできることにでも、誰かに助けてもらわないとできない人たちが、おおぜいいます。それは、本人の責任ではないハンディキャップです。私たちは、そのような人々に深い思いを寄せ、いたわり合って生きていかねばなりません。

それが、福祉なのでしょう。

それはとても尊いことなのですが、先進国ではどこでも、福祉の増大が国家の負担となり、福祉の削減へ向かいつつあります。いたわり合っていかねばならないのに、それが重荷となってしまう。自分の生活が危ういのに、他人をいたわるどころではない、という空気もなきにしもあらずです。

そこにパラダイムシフトが必要ではないでしょうか。

ハンディキャップを持つ人々は、一方的に助けてあげねばならない存在なのか、ということです。誤解しないで頂きたいのですが、「自立」をうながそうと呼びかけているのではありません。

ハンディキャップを持ちながら生きるということは、普通に暮らしている多くの人ができることができないわけですから、必然的に、特殊能力を伸ばしていることが多いです。

たとえば、目の見えない人は、聴覚や嗅覚や触覚がとぎすまされるでしょう。心眼もあります。目が見えないことは、ある意味不自由であり、ある意味、他の能力を増大させる必要があります。目が見えるなら、暗いところでは照明をつけねば何もできません。でも、目の見えない人は、照明があろうとなかろうと同じことができます。目の見える人の方が、ハンディキャップを持っているという見方はできませんか?

アインシュタインは、精神的なハンディキャップを持っていたともいわれます。自閉症のある人は、直感力や記憶力にずばぬけた能力を発揮することもあります。

何かを失うということは、けっして「喪失」だけではないのです。失った以上に別の何かを獲得し、成長が生まれます。それを本人も周囲も気づいていないケースは多いでしょう。

特殊能力だけではありません。特殊な体験もそうです。その「喪失」がなければ見えない世界が、彼らには見えているかもしれない。彼らは、多くの人が気づかない何かに気づいているかもしれない。

すると、そのような「喪失」は、ハンディキャップには限りません。あらゆる人が、なんらかの喪失を持っています。つまり、すべての人が、特殊体験や特殊能力をもっていると言えるはずです。

喪失感の大きな人は、「私はダメだ。何もできない」と思っているかもしれません。じつは、そのこと自体が、価値なのです。

人はいたわり合い、支え合って生きていかねばなりません。しかし、それだけでは価値が生まれにくく、社会が一方通行になり、行き詰まってしまいます。「学ぶ」という視点が必要ではないでしょうか。「私はダメだ」と思っている人から。

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