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ホームスクーリング実践記

ホームスクーリング実践記

[022]何を学ぶのか?

  

 

「わが家のホームスクーリングは教えない学びである」という言い方はセンセーショナルに響くようです。よほど、学びとは、教え、教えられるものであるという固定観念があるのでしょう。

「教えない」のは、具体的で個別の事象のことです。学校風に言うと、教科書に書かれている内容のことです。もう少し一般的に言うと、いわゆる「知識」です。とくに、現代のように、インターネットをググればなんでもわかるというWeb 2.0時代になると、知識の比重はもっと下がります。ちなみに、SNSのWeb 3.0時代になれば、人間関係も激変しますが、それはもっと先に書きます。

先鋭的な人は、「知識などなくてもよい。調べる方法さえ知っていればよいのだ」とさえ言います。そうなのかも知れませんし、そうでないのかもしれません。いずれにせよ、知識が重んじられた時代とは違い、知識の使い方の方が大事になってきたと言えそうです。それを、リテラシーという、今まで聞かなかった言葉で語られます。

学校は、主として「知識」を授ける場として機能してきましたから、リテラシー教育をせよと求めたところで、急に対応するのは困難でしょう。学校に次々と問題が生じているのは、ある意味当然と言えるかもしれません。それでもって、「学校はダメだ」という人もいますが、現実に代替手段がない以上、学校批判はいいですが、学校否定は避けた方がいい。現在のままの学校でも、できることは、きっと、まだまだあるはずです。

学校よりフットワークの軽いオルタナティブ教育では、先鋭的な試みが可能です。

わが家では、子どもたちと試行錯誤する過程で、次のように学びを考えています。

知識は、非常に大事です。たくさん知っているにこしたことはない。「私」の住む世界がどんどん拡大している現在では、知識はいくらでもあった方がいい。かたや、リテラシーも大事です。知識はたえず増え続け、変わり続けているので、知識を習得することに終着はありません。

しかし、知識のみに追われていては、全く意味をなさず、本末転倒です。何のための知識か? 今を生きるためです。それ以外に、知識が何に役立つというのでしょう?

20世紀までは、人類の大部分は、支配者・支配階層(言葉がキツイなら、親方でもボスでもリーダーでも先生でも社長でも政治家でも役人でもいいです)に隷属するか、依存して、生きてきました。国家、会社、学校、地域などです。ところが、20世紀後半から、急速にグローバル化が進み、個人が巨大な波に呑み込まれてしまい、どうにもこうにもならなくなりつつあります。いままで、私たちを守ってくれた、国家や会社や学校や地域が、うまく機能しなくなりつつあります。

国家の仕組みを変えようと、「革命」が実行されたこともあります。歴史を学べばわかりますが、革命が人々に幸せをもたらしたことはあまりない。というか、皆無と言っていい。(革命の定義にもよりますが)

外的環境を変えるのではなく、「私の内面」を変えることこそ、21世紀の生き方ではないか、と、これは私の持論ではなく、世界中で多くの方が、こんな感じのことを言い始めています。私も、その方向で間違いないだろうと思います。私はそれを「自分の人生を生きる」と解釈しています。国家や会社や学校や地域を否定するのではありません。革新するのでもありません。私のあり方を変えるだけです。「こうありたい」と望む私が、私の意思で、国家や会社や学校や地域に対し、立ち位置を見出し、貢献を含めて関わりを自らつくる。「国を愛する心」は自然とあります。でもそれは、だれからも押しつけられません。

「自分の人生を生きる」ことは、すなわち「意欲」です。そうなれば、不平不満、妬みや嫉妬はほぼ消えます(どうでもよくなるのです)。不平不満だらけの人生は、御免こうむりたい。不平があるなら、自分で動く。

自分の人生を生きるには、世界をよくよく知らねば、身動きできません。学校で習う知識は、世界の中のごく一部であり、ごく限定的な局面でしかありません。世界は、無限に広大で、無限に多様です。無限な多様性に対するには、徹底したパターン思考によらねばなりません。パターン思考は、「同じ」と「違い」で組み立てるものなので、0と1の世界、つまり、デジタル思考です。デジタル文明が世界を激変させたことは、歴史的事実(となる)でしょうが、だからこそ、人間の脳内でも同じことが生じます。パターン思考が、デジタル文明に非常に親和するのも必然です。

しかし、デジタル文明は、「仕組み」に過ぎないので、それをどう意味づけ、どう使うかが、かつてないほど、強く問われます。そこで必要なのが、古典的な物語の力だと考えています。

つまり、現代において、学ぶべきものは、知識そのものではなく、学び方、すなわち、パターン思考と物語の力(の融合)ではないかと考えています。小学校の漢字であろうと、東大・京大の入試問題であろうと、人生の困難であろうと、世界的課題であろうと、このように対していくものではないかと、考えています。

そしてまた、現代は非常に大きな効率が求められそうですが、大きな成果に必要なのは、精進や習慣といった、地道で時代に逆行しそうな価値観と行動であると、どうみても、そのような結論にしかたどりつけません。

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