子どもたちにとって最も良い学びのあり方を求めて

モモナナじぇーぴー

メイン
ホームスクーリング実践記

ホームスクーリング実践記

[049]「社会性」というキラーワード

  

 

私が住む童仙房では、2006年春に、地域にあった小学校が、統合によって廃校となりました。2004年から2005年にかけて、統合に関する話し合いがなんどか、地域内でありました。

そのとき私が困惑したのが「社会性」という言葉です。「子どもの数が減っては社会性が育たない」という言い方がなされていましたが、私には正直、何を言っているのかさっぱりわかりませんでした。しかし、「社会性」というのは、どうやら、日本人にとって、議論の必要のない、黄門様の印籠のごとき権威ある用語のように見えます。すべての思考や議論を打ち切ってしまう、まさにキラーワードです。定義は自明であり、定義に疑義を挿むことは「反社会的行為」である。といえば、少しおおげさなかな。いや、そうでもない。

「社会性」の「自明であるdefinition(定義)」は、私には自明ではないので、じっくり考えねばわかりませんでした。

「数が多いことが社会性をつくる」のなら、社会性とは、集団を意味するようです。自分らしさ、アイデンティティ、個性といったものを重視していないことは明らかです。「私が私であることを抑制し、集団に合わせる」ことを「社会性」というのだと、だんだんわかってきました。

私が子ども時代、大人になってからも、学校教育に関して「社会性」というキーワードは、あまり聞かなかったように記憶しています。統合に際し、この言葉が出てきたのは、行政サイドからです。そして、この言葉を聞くやいなや、すべてを了解しているかのように、多くの地域住民は反応していました。これは、童仙房で見られる事象でなく、どこの地域でも、田舎でも都会でも、ほとんど同じことが生じているようです。

私が子ども時代、「個人より集団を優先する日本人の性質」が世界から不思議がられていました。もうちょっと個人を大事にしなければならないだろうと、「個性の尊重」が学校教育でとりあげられた時期もあります。「会社人間」が家庭より会社を優先することで、家庭に問題を生じる事例も噴出していました。

ゆとり教育も、個人を大切にしようという文脈にあったはずです(ゆとり教育の是非を論じているのではありません)。そして、現在、私が子どもの頃より、公共の概念は大きく後退し、個人主義が大きく伸びています。そのための弊害が目に余るほどです。

こんなに私たちの意識が変わり、社会も変わってきているのに、学校教育における「社会性」という錦の御旗は、何らそこなわれることなく、完璧な地位を保ち続けています。

逆に、学校教育以外で、「社会性」という用語が、こんなふうに機能するだろうか?

むしろ、学校教育以外の社会では、多様性とか共生が重要なキーワードになってきています。「多様性を認め合い、共生社会をめざそう」というのが、おおむね、世界中で目標とされる価値観に近いでしょう。

学校教育でいう「社会性」は、真逆です。

「いや、そんなことない。学校教育でも多様性を認め合い、共生を目指しているのだ」という人がおられるでしょうか?

では、尋ねます。

定期試験、偏差値、成績、受験は、いったい何でしょう? 共生社会は競争社会とは対の概念です。人は一人では生きていけません。多くの人々が手を取り合い、助け合ってしか、生きていけません。それが社会ではないでしょうか。

始業式、終業式、入学式、卒業式、運動会、その他、各種学校行事は、「多様性と共生」なのでしょうか? これら行事において、どのように多様性が認められ、異なる価値観が共生しているのでしょう?

一律の学習内容と、多人数相手の授業。多様性と共生?ほんとに?

その他、学校教育のしきたりやあり方で、多様性と共生の実現を目指していると言えるのは、いったいどこ?
学校教育のしきたりやあり方は、まさに「あの社会性」を具現化する仕組みそのものではありませんか?

私が学校教育をめった斬りにしているって? ちがいますよ。学校教育を愛してやみません。愛するがゆえの批判なんかでもありません。そもそも批判などしていないのです。批判に聞こえるのは、あなたが学校教育に否定的な感情をもっているからではないでしょうか。

前へ前へ  TOPTOP  次へ次へ