子どもたちにとって最も良い学びのあり方を求めて

モモナナじぇーぴー

メイン
ホームスクーリング実践記

ホームスクーリング実践記

[057]国を愛する心

  

 

平成18年に全面改正された教育基本法の第2条第5項にこうあります。
「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと」

「国を愛する心」を法律に書き込んだことで、物議をかもしました。今後、学校教育で国を愛するための具体的な取組が盛り込まれていくかもしれません。

わが家はホームスクーリングですから、うちの子たちはその影響を直接は受けません。もっとも、国のあり方が変わっていくなら、無関係ではいられませんが。

ただ、うちの子たちに「国を愛する心」をどうするかは、全部の責任を持って、親が判断する必要があります。

教育基本法では、「愛」についての定義がありません。歴史において「愛国心=国への忠誠」とされたこともあります。これは「愛」をどう定義しようとも、「愛」からかけ離れた概念でしょう。愛ではなく、服従です。そうかといえば、反戦運動や反政府運動が「愛国」と表現されることもあり、ややこしいです。

教育基本法第1条にはこうあります。
「教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない」

人格、平和、民主的、資質、健康などの定義によって揺らぎがありますが、ごく素直に読むなら、わが家の教育目標である「世界とともに、自分の人生を生きる」ことと同じ意味に受け取れます。

「国家及び社会の形成者」は「国家及び社会の服従者(言いなりになる存在)」ではないし「国家及び社会の構成者(単なる一部分)」でもありません。形成は、自らの意志と選択によって、主体的に、自律的に成される行為です。

「愛」に「好き」という感情を込めるなら、「国家及び社会の形成者」にはなれません。好きになることを強いられるなら、服従です。「国を好きになること」を「国を愛する心」というなら、教育基本法自体に齟齬が生じます。

「愛」を「共生のパラダイムを選択する意志」と定義するなら、うまくおさまります。この定義なら、愛国心教育に反対する方々も了解できるのではないでしょうか。

どこの国にも、さまざまな考えを持った人がいるし、文化や人種、言語でさえもさまざまです。主義主張、価値観、宗教などもさまざまです。現在もさまざまですが、歴史においてもさまざまでした。好きな人も嫌いな人もいるでしょう。許しがたい人がいるかもしれません。抜き差しならぬ対立があるかも知れません。

嫌いな人を好きになる必要はなし。許せない人を許す必要もなし。何が何でも仲良しこよしである必要もなし。

そんなことが愛ではない。

それほどまでに多様な人々と共に生きていこうという選択が愛なのです。わが国のどんな歴史も、その時時を生きてきた人々の証ですし、伝統文化も、先人たちが生きてきた証です。それら個々をどう評価しようと、好こうと嫌おうと、そんなことはどうでもよい。

わが家では、「国を愛する心」も「郷土を愛する心」も大切にします。ただし、「国を好きになること」「郷土を好きになること」を愛国心、郷土愛とは考えません。そんなことは子どもたちに求めません。ましてや、国や郷土への忠誠や服従は論外です。

多様性と共生がいかに大切か。それを選択させることはできませんが、その大切さを教えることはできます。その結果、共生を選択しようという意志を持つかどうかは、本人次第です。親といえど他人が意志を持たせることはできません。

わが家の定義において、「国を愛する心」も「郷土を愛する心」も大切にすることはできるし、そうしますが、「愛する心」を持たせることは別問題です。これが、わが家の愛国心教育です。

ちなみに、今のところ、うちの子たちは、日本の国が大好きです。日本に生まれたことを幸せと感じているようです。さらに、若い人たちがどんどん出て行っているこの郷土を大好きで、ずっとここに住み続けたいと言っています。
(今後、「好き」という感情が変わることはあり得ますし、そうなったとしても、愛国心、郷土愛は別問題です)

前へ前へ  TOPTOP  次へ次へ