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ホームスクーリング実践記

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[058]宗教教育

  

 

国を愛する心とならんで、きわどい問題なのが、宗教教育です。戦前戦中に国家神道を教育に組み込んだことで国民の思想統制が進み、愛国心ともからみあって、怖ろしい現実を生じたことは、忘れてはなりません。その反省から、戦後教育では、宗教や「国を愛する心」に強いアレルギーを持ち、避けて、否定さえしてきました。

これは、行きすぎではないかと考えています。

極端な否定や忌避は、極端な肯定と変わらない結果をもたらしがちです。極端に走ると、どちらへの極端であれ、思考停止を生みかねません。これはこれで、怖ろしいことです。

わが家はホームスクーリングですから、国家や学校を批判したところで、無意味です。自ら、宗教教育をどうするのか、考えて選択しなければなりません。もちろん、宗教教育をいっさい無視し、わが家では関知しないという選択もあり得ます。

わが家の教育目標は「世界とともに自分の人生を生きる」ことです。その文脈で、宗教教育を考えることになります。民主主義においては、思想信条、信仰の自由が保障されており、とうぜんながら、すべての子どもたちにも適用されます。

1つの宗教を是として教えることは、教育ではありません。そのいっぽう、宗教は数限りない種類のものがあり、人類の歴史で大きな影響を持ち続け、今も持ち続けています。これを無視することは、これまた、教育とは思えません。

この世界に、多様な宗教があり、多様な神や仏が祀られており、多様な教義があり、多様な行事や祭祀や祈り方があります。熱心な宗教家からは怒られるかもしれませんが、私は宗教をローカルな文化と考えています。世界宗教でさえ、地域ごとにかなりのバリエーションがあります。

それぞれの宗教は、自分のところが絶対であり、一番であると説いています。そう説かねば、信じることはかないません。しかし、それは排他性を帯びざるを得ず、歴史において、深刻な問題を生じてきました。その一方、宗教は、人を救ったり、世の中を良い方へ変えようという力ももたらしてきました。

世界が、共生を望むなら、宗教のあり方もバージョンアップが必要かも知れません。私がそれぞれの宗教に働きかけることなど、とてもできませんし、そんなことをすべきでもありません。が、わが家では、すべての宗教が共生できるような世界観を優先したいです。

宗教ごとに、さまざまな神仏があります。その正体は、いったいどのようなものでしょう?

この、神仏が、宗教の対立の一因でもあります。そっちの神と、こっちの神。どっちが偉いか? または、科学と宗教の対立。これでは共生とはほど遠いです。

神や仏を、独立した人格を持つ存在と考えるなら、どうしてもうまくいきません。というか、そういう存在なら、私たち人間に神仏を知覚できるはず。

神や仏とは、この世のすべての象徴ではないでしょうか。宇宙そのもの、自然そのもの。それなら、神を「絶対」と考えてもよさそうです。だって、私たちにとってこの世のすべては「絶対」に他なりませんから。神が世界をつくったという神話も、「宇宙が宇宙をつくった」のなら、科学的知見と同じです。神や仏の摂理が、自然の摂理であると考えるなら、物理や数学も神仏の御心です。

すべての宗教、宗教と科学の共生が見えてきそうです。個々の宗教に変われなどと言うのではありません。私自身がこのような宗教観を持つことで、どんな宗教とも、科学とも、おおらかに共生していけるのではないかと思います。ある宗教を信仰している人が、過激な思想をもっていたとしても、「世界を表現する形の1つだ」と受け止めれば、その人と共に生きることができそうです。

科学が何でも可能にする、という科学万能主義は、怖ろしい思想です。やはり、私たちは、謙虚であるべきでしょう。自然に対して、宇宙に対して、地球に対して、あらゆる人々に対して。そう、謙譲の精神が、すなわち学びそのものです。

であれば、科学をとめどなく発展させるには、謙譲の精神が不可欠ということになるでしょうし、けっきょく、科学も宗教も同じことではないかと、そんな結論に至りそうです。

わが家では、こういった世界観で、どんな宗教をも肯定し、共生の道を探したいと、子どもたちと語り合っています。

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