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ホームスクーリング実践記

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[059]道徳

  

 

きわどいテーマ、三連発です。愛国心教育も、宗教教育も、右にいる人からはわが家が左寄りに見えそうですし、左にいる人からは右寄りに見えそうです。今回のお題、「道徳」もそんな感じです。

私が子どもの頃は、「道徳」の授業がありましたが、いつのまにかなくなり、また学校教育で復活するそうですね。わが家はホームスクーリングなので、どっちでも関係ないんですが・・・(愛国心や宗教教育と同じこと言ってますね)

道徳も、国民の思想統制に利用された歴史から、学校教育で取り上げるべきではないという意見もあります。戦争は繰り返してはいけません。しかし、そのいっぽう、日本人の「精神」の退潮は目をおおうばかりです。自分さえよければいい。競争に勝ちさえすればいい。金さえあればいい。弱い者は自己責任でほっておけ。オレは正しい、間違っているのはお前だ!

すくなくとも、うちの子たちは、こんなふうに育ってほしくありません。わが家の教育目標は「世界とともに自分の人生を生きる」ことです。自分の人生とは、世界と共にしかあり得ません。私たちは、「全知全能の神」ではない。弱く、不完全で、間違いだらけのちっぽけな存在です。競争原理で生きていくなど、妄想もはなはだしい。

こんなに弱く、不完全で間違いだらけであっても、たくさんの多様性が集まれば、うまい具合にパズルが組み立てられて、信じられない成果を生みだしていけます。自分の人生を生きるということは、共生によってのみ、実現できます。

ですから、わが家にとっての「道徳」とは、共生に他なりません。古いしきたりを大切にするかどうか、伝統文化を大切にするかどうか、マナーやモラルにどう向き合うか。これらは、「共生」の文脈で考えます。

自分の人生を生きること、多様性と共生することは、「私が私であること」を追求することでもあります。私はあなたではない私であるからこそ、「多様性」なのです。多様性の乏しいところに共生の概念は育ちません。あまりにばらばらであまりに多様だからこそ、共生が意味を持つのです。そのような共生が、創造の原動力であると考えています。

道徳と呼ばれる概念のなかには、日本の伝統文化、伝統的な価値観、伝統的な宗教観が含まれます。日本人の美意識にかなう伝記もそうでしょう。これらは、非常に危うく、微妙で、取り扱いに注意を要するテーマです。しかし、これらを避けたところに、「私が私であること」はあり得ず、共生も見えてこない、と思えてなりません。

日本人の社会には、いまだに閉鎖的、排他的な趣が非常に色濃いです。その一方、災害時に世界から称賛していただいたような「美しいふるまい」(私たちからすれば当たり前なのですが)もあります。

日本人にとっての道徳と、他の国々の方々にとってのモラルやマナーは共通するものもあれば、異なるものもあります。日本人の常識が世界で通じないことは多々ありますが、日本人の常識が称賛されることもあります。

日本人の道徳観を絶対と考えることは危険ですが、同時に日本人の道徳観を真摯に学び実践することも重要です。

道徳観は、古典の中に見出しやすいようです。日本であれ、他国であれ。長い間、そこの人たちが大切にしてきた価値観です。昔話や神話もそうでしょう。古典を広く考えていいと思います。近い時代の文学作品でも、人々が大切にしているものならなんらかの道徳観がうかがえるでしょう。

わが家が見るのは、「これが正しい」「こうすべきである」という単一の道徳観ではありません。わが家にとって、道徳とは、「あなたがすべきこと」ではありません。「私がありたい姿」です。昔々から、多くの人々が、共生をめざしてはぐくんできた道徳観を、謙虚に学ぶ。わが国に伝わる道徳観も、だいじにする。日本人として日本に生きるからには、まずは、日本の道徳を知り、共生の概念にかなうよう実践する。そして、世界のさまざまな道徳観を学び、私たちが取り入れたいものは取り入れ、そうでなくとも、他国の方々が振る舞うあり方を知り、共に生きる。

道徳学習の原点は読書であり、そして、人との交流だと考えています。

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