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ホームスクーリング実践記

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[061]クリティカル・シンキング

  

 

2009年の国際学力調査(PISA)で中国(上海)が初参加にして「学力世界一」となりました。科挙型を脱し、新しい「素質教育」が成果を生んでいるとのこと。それをレポートしたのが『中国はなぜ「学力世界一」になれたのか』(天野一哉著、中央公論新社)です。

これまでの話の流れで、「日本人は中国に負けないようもっと勉強しないといけない」などと私が言いそうにないことはおわかり頂けると思います。ピンポーン!です。この本の帯にある「日本の最大の敗因『素質教育』とは何か?」に、あまり興味はありません。

中国では、日本をはるかに上回る「つめこみ教育」をガンガン進めています。しかし、「素質教育」を受けた子の方が、知識偏重教育だけを受けた子より伸びている、と、同書では分析しています。これは「知識伝達偏重を改め積極的主体的学習態度を形成する、総合性・選択性のある教育課程とする、学習者の興味と経験を重視する、問題を分析解決する能力および交流・協力の能力を育成する」ものです。

同書では、上海と同様、2009年にPISAに初参加し、日本より上位にランクされたシンガポールについても紹介しています。

「PISAで高得点をマークするには受動的な反復学習による知識の蓄積(記憶)のみではなく、能動的かつ総合的な経験を中心にした多様な学習を構築する必要がある」とのことで、シンガポールでは、「少なく教え、多く学ぶ」ことを教育理念の根幹に据えました。

ところで、PISAのことを、日本の文部科学省は「OECD生徒の学習到達度調査」と訳しています。OECDとは、経済協力開発機構のことで、先進国が加盟する経済成長、開発、貿易拡大を目的とする国際機関です。

OECDが策定した「学力観」である「キー・コンピテンシー」(文部科学省の訳では「主要能力」)について、同書で分析があります。端的に言うと、「『人生の成功』と『適正に機能する社会』の実現を目的」としています。これは、産業社会から知識基盤社会への転換をベースとしています。ピータードラッカーも、21世紀には先進国の7割の労働者が知識労働者となる、と予測しています。

著者は、OECDのキー・コンピテンシーを「『人権』の保障と『共生社会』の構築」と言い換えています。これは、[HSその56 愛]でご紹介した『知恵の樹』の結論とそっくりです。すなわち、次の2つです。

 (1)個人のアイデンティティや自意識
 (2)他人とともに世界をつくりだす(その人を好きか嫌いかは無関係)

21世紀の重要な価値観は、「私が私であること」と「私が世界と共にあること」の2つであり、この両者は2つのものではなく、同一の概念であるということになりそうです。じつは、どの分野のどなたの意見を見ても、このように理解できそうに見えます。

そしてそれは、わが家の教育目標である「世界とともに、自分の人生を生きる」と同義です。

さて、それでは、中国では、ほんとうに「『人権』の保障と『共生社会』の構築」が目指されているのでしょうか?

著者は、じっさいに取材を重ねて分析しています。米国やデンマークでは、あちこちで「デモクラシー」という言葉を繰り返し耳にしたのに、中国とシンガポールでは、この言葉を耳にすることはなかったそうです。デモクラシーよりも、もっと注目すべきなのが、「クリティカル・シンキング(批判的思考)」ではないでしょうか。米国やデンマークではこれが大事にされていますが、中国ではまったく聞かなかったそうです。自律的なあり方には不可欠の素養のはずです。

「素質教育」と「少なく教え、多く学ぶ」は兄弟のような関係にありますが、じつは、日本の「ゆとり教育」も内容や文脈はそっくりで、兄弟関係にあるといっていいそうです。クリティカル・シンキングは、欧米の文明にキャッチアップし、21世紀へ対応していく上で避けられない課題ですが、人権が抑圧気味の国家では、政府への批判を育てることともなり、諸刃の剣です。中国、シンガポールでは、クリティカル・シンキングが、静かに忌避されています。

以上が、同書からの著者の分析や意見のご紹介です。

クリティカル・シンキングの忌避は、じつは、日本でもそうかもしれません。「ゆとり教育」が異常にヒステリックな弾圧を受けた理由は、意外とこのへんにあるのかもしれません。

では、クリティカル・シンキングを重視する欧米では、21世紀型へなんの問題もないのか? いえいえ、問題山積です。

クリティカル・シンキングとは、何を批判するのでしょうか? 欧米型の思考では、自分以外の他者、または外的要因を批判します。これは、競争原理には役立ちそうですが、共生原理にはいかがなものでしょうか? だからといって、批判せず、ニコニコしていれば良いというのはお門違いです。

私が思うに、批判すべきは「あなた」ではなく「あなたの受け止め方」「あなたに対する理解の仕方」「あなたへの評価」ではないでしょうか。つまり、他者や外的環境ではなく、その受容のしかた、つまり私の内部ではないでしょうか。

「あなた」を批判している限り、共生は見通せません。共生に必要なのは、「私自身のあり方」だと思います。21世紀型デモクラシーは、その文脈にこそあるはずです。

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