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ホームスクーリング実践記

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[063]長男からのgift

  

 

長男が保育園に行かなくなって1カ月半ほどの間、「たいくつだ〜」「ひまだ〜」「何をしたらいいの」と、毎日、暇をこじらせては苦しんでいましたが、5月半ば、急に状態が変わってきました。

あれほど「何もすることがない」と言っていたのがうそのように、何でもかんでも身のまわりのものを工夫して遊び始めました。ここは田舎ですから、家の中にも外にも、素材はふんだんにあります。

ほんらい、子どもは「ごっこ遊び」とか「見たて遊び」のように、棒きれや石ころや土、木材の端材、紙切れ、ダンボール、壊れた機械など、大人から見ればゴミのようなものを、想像力を駆使してオモチャと化して遊びを創り出します。最近は、オモチャも、あまりに完成されすぎていますね。学校も保育園も会社も、あまりにシステム化されて、「レシピ」や「マニュアル」に覆われています。効率がいいといえば、そうなのですが、いつのまにやら、自分の人生を見失っているのかもしれません。

私自身、そのことにあまり気づいてはいませんでした。そう、気づかせてくれたのは、長男です。

保育園が悪いのではありません。私たち夫婦が、あまりに無自覚だったのです。自分の人生を生きることを大事にしながら、実際には無自覚でした。

長男が1カ月半でたいくつから抜け出たのは、とくにきっかけがあったわけではありません。時間が癒したのです。

父親と母親が、うかつにも長男の人生を軽く扱っていた。それを取り戻すために、長男は苦しい思いをしましたが、私たち親も、苦しかったです。その苦しい時期を耐えて乗りきることが大切だったのでしょう。長男は、ほんらいの、長男自身を取り戻していきました。

どうすれば取り戻せるか? 特効薬などありません。時間と忍耐です。まさに、精進。

でも、精進は、必ず、それに見合う結果をもたらします。

長男は、保育園に行っていた頃よりも、格段に、いきいきと日々を過ごし始めました。

そして、私たち夫婦は、「何が大切なのか」を、意識し始めました。ホームスクーリングへの決断は、まだまだはるか彼方ですが、原点であったことは、まちがいありません。

自分の人生を生きることは、素晴らしいことです。けれども、現代は、知らず知らずのうちに、効率や経済の名の下に、人生を誰かに委ねています。自分は何もできないと思い込み、生き方を指示されたり、決めてもらったりすることを望んでいます。自分で自分の人生を生きることに恐怖感を抱いています。

自分の人生を生きるということは、強靱な精神で選択をし続けるということではありません。

『ソフィーの選択』という小説があります。ポーランド人の母と息子と娘がアウシュビッツへ送られ、ガス室へ連れて行かれるとき、母が「自分たちはユダヤ人でない」と懇願すると、「おまえに選択の特権を与えてやろう。2人の子どものうち、1人は残していい、もう1人はガス室送りだ」と言われ、「わたしには選べません!」と母は言ったものの、最後の最後、「小さい方を連れて行って!娘をガス室へ連れて行って!」と叫びました。母は、生きながらえましたが、精神的に壊れました。

『選択の科学』(シーナ・アイエンガー/文藝春秋)という本では、選択こそが人生の力であると同時に、ときには選択肢の存在が過酷であり、選択肢の多さが無力を生むという、「選択」の奥深さを明かしています。

自分の人生を生きるということは、選択を誰かに委ねるという選択をすることも、選択しないという選択をすることも含めて、大きな意味で、人生に責任を持つということだと考えています。

そのように気づいたのは、他でもない、長男のおかげなのです。親が子に教えるのではなく、親が子に教えられる。では、親は、どうするか? 何が子どもにとって最善であるかを追求するしかないでしょう。子どもにとっての最善を決めるのは、親ではなく、子どもです。

つまり、子どものあり方をいつもいつも注意深く見守ることにつきるでしょう。

長男は、6月以降、保育園に行っていたころよりはるかに活力がありました。それを長男にとっての最善と判断することは自然な流れでしょう。

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