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ホームスクーリング実践記

ホームスクーリング実践記

[067]ドンキホーテ

  

 

「みんなは学校へ行くのに、どうしてボクだけ行かないの?」

これが、最後に残った質問です。
教育とは何か、学校とは何か、ホームスクーリングに何を求めるのか、学力は? 社会性は? 友だちは?
こういった、質問とは異質なものです。

「なぜ、みんなと違う道を歩くのか?」という質問です。
もっと言えば
「なぜ、未知の世界へ進もうとするのか?」という質問です。

「なぜ山に登るのか?」
「そこに山があるからだ」
こういった問答とはわけが違います。

長男の成長の日々を、過去に戻ってやり直すことはできません。

ホームスクーリングを選択するなら、明確な説明と、明快な意志が必要です。迷いがあるなら、やめた方がいい。

ところで、「なぜ学校に行くのか?」という説明は不要だし、実現するための意志も不要です。これはとても不思議なことです。
片一方の道は説明がいるのに、もう片方の道は説明がいらない。説明がいらないほうの道は、仮にいかに具合が悪かろうとも、いかに問題山積であろうとも、説明がいらない。説明がいる方の道は、仮にいかに輝かしい未来が待っていようとも、明確な説明が必要です。

私は、学校教育よりホームスクーリングの方が良いと思っていたわけではないので、長男に対して説得するのではなく、そもそもどのようにありたいかと、対話を重ねました。夫婦でも、親子でも。

何より大事にしたいのが、自分の人生を自分で生きること。長男自身が、家にいることによって自分の時間を取り戻したという経験、京大や生協の活動が何もないところから、大勢の力で創り出されていくという経験、こういったことを重ねてみると、もはや、答えは明らかです。

6歳の長男にも、自らの道を選択しつつありました。

秋に、長男はとつぜん言いました。
「僕が行くがっこうの名前を思いついたよ。『何でもがっこう』っていうんや。ほんでな、『どこでもがっこう』もいいし『だれでもがっこう』もいいな」

私が言ったのではなく、長男のオリジナルです。そしてそれは、生涯学習の概念でもあると思います。6歳の長男は、そんな難しい理論を知っているはずなどありません。経験的に導いた言葉なのでしょう。

11月には、わが家の方針が確定していました。その後、現在に至るまで、親子とも、4人の子とも、この方針が揺らいだことはありません。

なのに、私と妻にとって、「みんなは学校へ行くのに、どうして長男だけ行かないの?」という解決済みのはずの質問は、長らく尾を引くこととなりました。「子どもが学校へ行かないことの後ろめたさ」です。

学校教育はあまりに巨大です。その巨人に従わない私たちは、苦しい闘いを続けます。

しかし、現実には、だれも、私たちに向かって、「ホームスクーリングは悪いことだ」などと言いません。ホームスクーリングをとがめたり非難する存在がないのです。やがて、その巨人が、自分自身の心が作りだした風車だと、いやじつはとっくにわかっていたのに、心の底から巨人の正体は風車だとさとるのに、長い時間がかかりました。

ホームスクーリングにおける障害は、これが最も深刻で最もやっかいなものでした。とはいえ、子どもたちは軽々と乗り越えて行ったのですが。

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