世界を救うというミッションをもって、今、目の前にフォーカスする

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どたんば哲学

どたんば哲学

[012]奇跡のあとの虚脱感

  

 

9月28日にイベントをやろうと決まったのは、9月6日のこと。
その時点では、イベントをやる、ということだけで、内容も集客も、枠組みも、何もなかった。何もなかったのに、やるという事だけが決まった。タイムリミットは、22日間。しかも、個人主催。

めちゃくちゃな話だ。

ふってわいたような、どたんばだ。このようなイベントを私がしたいと望んでいたかというと、微妙なところだ。Yesでもないし、Noでもない。イベントを主催することは、あまり好むところではない。しかし、新しいパラダイムを創造することへの行動は、強く取り組みたいと願う。

新しいパラダイムの創造ということ自体が、特定の誰かのためのものではない。それこそが、「世界を救うというミッション」の1つの表現なのだろう。
私は、このようなばかげたどたんばを自ら招き、自ら引き受けた。だれかに押しつけられたものでもない。なぜ、わざわざそんなことをしたのか。新しいパラダイムの創造のためのチャンスだからである。

「世界を救うというミッションをもって、今、目の前にフォーカスする」

22日間、今、目の前にフォーカスし続けた。

そして、奇跡が起きた。何もない状態から、短期間で、予算無しで、大きなイベントが成功した。もちろん、地域の方々や、ネットの仲間たち、行政の方々、当日来てくださった皆様、マスコミの皆様のおかげである。そのような力を結集し、あのような形をなし得たのは、やはり奇跡である。

どたんば哲学とは、何のためのものであるか。奇跡を起こすためのものである。どたんばでは、道が残されていない。八方ふさがりである。その状態からどうにかなるなら、誰が何といおうと、奇跡に相違ない。ある程度ビジネスを進めてきた人が、大きな成功をつかむことではない。0と1の違いは、1と10000の違いよりも大きい。どたんばは、ゼロである。ゼロでなくすための道が尽きてしまったからこそ、どたんばなのである。

どたんばで必要なのは、奇跡だ。

どたんば哲学は、奇跡を起こす。奇跡は、普通にしていて起きるものではない。偶然に頼るのではなく、どたんばでは必ず起こさねばならない。だからこそ、普通を飛び越えたミッションが必要となる。

ハコモノとは明らかにちがう「村おこし」を実現した。あり得ないことが起きた。地元の人たちも、それは感じてくれただろう。その日は、新しいパラダイムの創造への、ささやかな一歩だった。

それにしても、疲れ果てた。

後日、テレビ番組で知って、他地域の公的機関が、私に講演を依頼してきた。はじめての講演である。そして、パネルディスカッションのパネラーの依頼。

それ以上は、無理だった。地下にもぐりたいと思った。当時の私のミッションは、まだまだ「世界を救うミッション」に対してクリアではなかった。ぼんやりしていた。だから、起きた奇跡に押しつぶされそうになった。

童仙房から離れたいという思いさえあった。

あるメーリングリストでそうつぶやくと、1人の女の子から、返事があった。
「それはいいことだ! 遊びにいくところが増えるから、ぜひそうしたまえ!!」と。

いいね、このノリ。絶妙だ。
多くの人は、童仙房という地域や、田舎暮らしを、絶対化する。そこに価値があると考える。しかし、私の人生や、ミッションは、全く別のものだ。私が童仙房から離れたいと言ったとき、「もったいない」という反応が多かった。それは、地域や田舎暮らしを絶対化している証拠だ。

彼女は、違った。人生やミッションと比べれば、地域や田舎暮らしはちっぽけな問題だ。地域がどうでも良いというのではない。自分がしっかりしてこそ、地域との関係を築ける。自分がしっかりしてこそ、地域や国を愛せるというものだ。

彼女の言葉によって、私は勇気を得た。自分のミッションを温め、育てる勇気である。
そのために、雌伏の期間が必要だった。

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