世界を救うというミッションをもって、今、目の前にフォーカスする

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どたんば哲学

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[016]命

  

 

骨髄移植のための入院が、10月中旬だった。
その4日前、よりこが産婦人科へ検診に行くと、信じがたい言葉を聞いた。
「赤ちゃんの心臓が止まっています。流産です」
「え? こないだは元気に動いていたはず」
「でも、止まっています」
「また動き出すんですか?」
「いえ、死んでいます」
「・・・・・・・」

そのままよりこは入院し、掻爬手術となった。流産の胎児を取り出し、掃除をするのである。私たちの初めての子が、消えた。まったく、予期しなかった。脅迫FAXの2日後なので、精神的動揺を疑ったが、そうではないらしい。赤ちゃんが、自ら身をひいた形だとのこと。

ショックがわからないほど、混乱した。

ちょうど次の日には、よりこの両親が、妊娠のお祝いに、埼玉からわざわざ来てくれる予定だった。お祝いが、お見舞いになった。

私よりも、よりこの方が、ショックが大きかった。呆然としていた。

よりこは、翌日退院したが、それは、私の、ドナーとしての入院の3日前だった。ドナーの辞退ができないタイミングだったが、とてもそれどころではなかった。しかし、よりこは、言った。
「患者さんの命を救ってほしい」と。

私は、予定通り、入院した。どこも悪くないのに。入院の翌日、全身麻酔を受けて、骨髄提供手術。腰の骨にドリルで穴をあけて、骨髄採取したそうだが、私は爆睡中。目がさめたときには、激痛が走った。鎮痛剤で、落ち着いた。私の骨髄が、無事届けられたと聞かされた。

手術の翌日、よりこが見舞いに来た。どっちがどっちの見舞いかわからない状態だった。よりこが言った。
「患者さんがよくなるといいね」

去った命。自分たちが救えるかも知れない命。

入院から5日目、退院したが、腰がヒリヒリした。そのヒリヒリは、1ヶ月続いた。

さて、少し腰の痛みが落ち着いた頃、私たちは、転居先を考え始めた。童仙房内を希望したが、どのように聞いて回っても、すぐ住める空き家はない。童仙房をあきらめ、童仙房外を考えた。

あちこち、車で回った。

私たち夫婦は、田舎暮らしになどあこがれてはいない。2人とも、都会の生まれ育ちだ。都会はよく知っている。でも、その時には、都会で暮らすことを不自由で不便だと感じていた。

だから、田舎を希望した。それも、童仙房以上の田舎を。自由のために。

だんだん南へ進んでいき、高野山の南側、奈良県と和歌山県、たいへんな山奥まで行った。もうどうにもならないほどのへき地だ。そこに、大いなる可能性を見た。どうにもならないがゆえに、道を拓かざるを得ないという可能性だ。

そこの人たちに会い、話をし、住居を見つけた。地元の人も協力してくれる。仕事は、役場の仕事と、森林組合が協力してくれる。よし、これでキマリだ。新天地での暮らしが始まる。

1999年12月のこと。

私たちは、引っ越しと、新しい暮らしを思った。それもいいと、思った。

そのとき、童仙房内で、はなれを貸してあげるという話を聞いた。いままで、そんなことはまったく聞かなかったのに。ぎりぎりのどたんばで、その話が出た。

私たちは、迷った。もともと、童仙房内での転居を希望していた。その思いに従うことにした。新天地の話は、ていねいにお断りした。

骨髄移植をできたこと、童仙房内へ転居できたこと、どたんば哲学が作動したからに他ならない。

「世界を救うというミッションをもって、今、目の前にフォーカスする」

「世界を救うミッション」には、2つの意味がある。創造と、他者へ尽くすことだ。創造は、神や仏の領域と思われている。しかし、偉大な成功者たちは、創造が大切だと言う。私たちは、神や仏に同化すべきなのかも知れない。神や仏は、世界を支配はしない。世界を救うのだ。それが、神や仏の仕事だ。神や仏に同化するなら、奇跡が起きて当然である。

神や仏は、謙虚である。上から目線で人を救うことなどできないからである。

いかなる宗教あろうと、宗教をもっていなかろうと、問題ない。世界を救うのは、神でも仏でもなく、「私」だからである。

1999年暮れ、童仙房内で引っ越しを完了した。そしてその時、次の奇跡が起きた。

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