世界を救うというミッションをもって、今、目の前にフォーカスする

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どたんば哲学

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[022]奇跡とは?

  

 

2005年、微生物を活用し、自然の摂理を生かした「強い農業」をめざしてがんばりました。これは、法制度のしがらみにより、ビジネス化しきれず、休止しています。

同じ年、小学校統合問題が再燃しました。

私は、ここまでの話で、「奇跡」という言葉を多用してきました。じつはこの先、もっと展開が大きく、早くなっていき、「奇跡」がエスカレートしていきます。「奇跡」もあまり多すぎると、ありがたみが薄れかねません。ちょっとここで、奇跡について、お話しさせてください。

「今、無職だけど、来月15万円手に入れたい」という願望が実現しても、奇跡ではありません。
「今、闘病生活をしていて、お金の入るあてがないが、来月15万円手に入れたい」という願望が実現すれば、奇跡です。

違いは何でしょう?

前者の場合、それを実現するには、アルバイトを探し、まじめに働けばいいのです。
後者の場合、どうやれば実現できるのか、道が見えません。

つまり、あらかじめ道が見えている願望、たぶんできるだろうと予想できる願望は、実現しても奇跡ではありません。
どうやれば実現できるか、かいもく見当が付かない願望が実現したら、奇跡です。

お金を稼ぐというだけではありません。

「大きな病気をもっているが、医者の治療を受け、だんだん治っていく」のは奇跡ではありません。
「大きな病気をもっており、治療の方法がない」のが治っていくなら、奇跡です。

「大きく深い悲しみが、時とともに癒されていく」のは奇跡ではありません。
「大きく深い悲しみが、短期間で消えてなくなる」のは、奇跡かも知れません。

「団体が、それなりの予算を持って、都市のイベントで人を集める」のは奇跡ではありません。
「個人が、予算無しで短期間に、山の上へ1000人集める」のは奇跡です。

難しい課題であろうと、大きな課題であろうと、どうすればいいかわかっている場合は、奇跡ではありません。
他人にとっては容易な課題でも、小さな課題でも、実現する方法が見あたらない場合は、奇跡です。

だから、奇跡は、「その人の実力」とは言い難いです。運や巡り合わせ次第とも見えます。

だから、奇跡を起こしたいなら、宗教的な方法や、まじない的な方法に頼りたくなりがちです。それはそれで否定するものではありません。が、それは、再現可能であるかどうか。つまり、誰がやっても、努力次第で奇跡をおこすことをある程度期待できるかどうか。

意外と、そのような方法はありません。

「どたんば」という状況では、そこから抜け出る方法が見あたりません。もし、抜け出る方法があるなら、「どたんばだ!」などと言っている間に、さっさとその方法を実行すればいいだけです。

どうしたらその状況を抜けられるか、見当も付かない。かといって、そのままでいると、破滅するか、破綻するか、何かが行き詰まってしまう。それは何としても避けたい。

じゃあ、どうする?

そこで必要なことは、奇跡を起こすこと。

道が見えない状態を「絶望」といいます。

絶望してはいけません。ほんとうに、行き詰まってしまいます。

希望を持つには、道を見いだすことです。道が見えないのに、どうやって?

「道を見いだせるという道」を見いだすことです。つまり、奇跡を自分の力で引き起こすことです。運や神仏に頼らずに。

奇跡といえど、魔法ではありません。道が見えないだけで、道はあるのです。道を拓くといえど、地面はあります。地面がなければ道は拓けません。拓こうと思えば拓けるのです。

私たちは、日常的に、自分のまわりの小さなことを考え、自分から遠く離れたことを一生懸命どうにかしようとします。こうやって行き詰まったなら、逆をしましょう。

「世界を救うというミッションをもって、今、目の前にフォーカスする」

世界を救うために、今、目の前の「こと」をどうすべきか。それだけを考えます。
これで奇跡が起きます。
資金も、学歴も、資格も、人脈も、体力も、何もなくてもかまいません。
信念と勇気と行動。できない理由は何もありません。

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