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どたんば哲学

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[028]子どもの未来は?

  

 

2006年秋、長男に村から、就学前検診の案内が来た。来年、小学生となる。

さて、どうしよう・・・

ちょうど1年前には、長男の教育について、こんな可能性を考えていた。

1.統合小学校
2.オルタナティブスクール
3.転居し、他の公立小学校
4.ホームスクーリング

1年前には、実現しやすいことを基準に考えていたのだが、その考え方は、子どもに沿ったものではない。実現可能性をあっちへおいといて、子どもにどう育って欲しいのか、そのために何が大事なのか。

昨年秋には、転居し、他の公立学校を考えていた。よりこの非常識な思いつきに端を発し、京大が童仙房へ来ることとなった。京大とわが子の教育は直接関係はない。しかし、この半年ほどの間に、生涯学習という概念を少し学んだ。

子どもたちにとって大切なことは、なんだろう?

学力、社会性、友だち、スポーツ、音楽・・・

こういう個別のことがらよりも、もっと大事なことがあるんじゃないか。学校での学びは、おおむね、先生と生徒の関係、つまり、「教わる」という関係がある。でも、社会に出たら、教わって習得するという場面はぐっと少なくなり、自分でどうにかして習得することが求められるようになる。年々、こういう傾向が世界中で強くなってきているようだ。つまり、既存のやり方が通用しにくくなり、新しいやり方やパラダイムを自分で見いだしていかないといけないといったような。

このことを考えると、ちょっと怖い。今の学校教育で大丈夫か?

こんな言い方すると、すぐにステレオタイプに受けとって、ヒステリックになる人がいる。当たり前だが、世の中、○と×だけじゃない。「○であり×である」とか「○でも×でもない」とか「○の中に×がある」とか「×の中に×と○がある」とか、無限に複雑系だ。とうぜん、そうなんだけど、○と×だけだと思い込んでいる人が意外に多い。

学校教育に疑問を呈すると、学校教育が×だと言う意味だと解してしまう。「学校教育の一部が○とは言い難い」という話は「○でなければ×なんだ、しかも全部が」と受けとってしまう。

そう、こういう人は多いが、こういう視点だと、新しいパラダイムを自ら見いだすことは、難しいだろうなぁ。なんでこうなっちゃうかというと、学校かなぁ。テストは○と×だし。社会性や人間関係も、学校内では○か×かで決めがちだし。かといって、学校教育に○と×以外はないのか、というと、そんなことはないだろう。でも、主な部分は○×が強いなぁ。

じゃあ、新しいパラダイムの創造には、何が障害なんだろう?

間違いなく言えるのは、常識とか、前提とか、思い込みとか、ここからここまで勉強すればあとは関係ないといった制限とか、目標を達成できたらそれでいいとか、そういうことだ。

そのためには、自分で考えることが、ぜったい大事。教えてもらうまで待っているとか、習っていないからわからなくても仕方ないとか、こういう考え方は良くない。

そう考えていくと、ベストなのは、ホームスクーリングに思える。しかし、これは、怖い。圧倒的に多くの子どもたちと同じ道を歩かなくても大丈夫か? ここが最大の恐怖だ。

学力や社会性は大丈夫だろう。というのは、以前、不登校の子たちに接してきたとき、学校に行っていないことで学力や社会性に問題が生じないことを多数見てきたから。世間の人たちは、なかなか信じないだろうけど、じっさいにそうだった。

日本社会は世界から見るととてもガラパゴス状態に向かっているようだ。じっさいのところ、日本の国力は落ちているようだし、たしかに、国内で閉塞感がつのっている。

日本の圧倒的多数に所属することそのものは、子どもにとって、良いことなのだろうか? それはむしろ、世界の特殊事例にあたりはしないだろうか? 子どもはこの先、狭い社会で生きていくわけにはいかないだろう。どんな生き方を選択するかは本人次第だ。親として、生き方を選択できるオプションを増やしてやりたい。

どうも、そう考えていくと、日本の圧倒的多数(つまり学校教育)に所属することは、生きることのできる社会が狭くなり、選択肢が少なくなってしまうとしか思えない。

でも、それは、親の思い込みではないのか・・・

こんなことを、毎日毎日、夫婦で話し合った。結論は、難しい。なぜ難しいかというと、考えれば考えるほど、子どもの将来を思うなら、ホームスクーリングの方が良いように思えるからだ。それを選択することが、怖くて、難しい。

学校教育を選択した方が、うんと楽だ。親の責任も軽くなるし・・・

うーん、難しい・・・

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