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創造の力シリーズ

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政治

  

6.競争原理から創造原理へ

競争原理では多様性が働きにくい

多くの人は、競争原理が現実社会そのものだと考えているようです。しかし、勝つか負けるかという競争は、多様性を生かすことになりにくいです。競争によって奇跡が起きることはまずありません。偶然起きる奇跡もあるでしょうが、社会の発展をもたらす奇跡は、多様性が生かされることによって、起きるべくして起きるのです。

競争原理が無意味かというと、そうでもありません。

ライオン

負けることが許されない、勝たねばならないというモチベーションは、個人が主体的に社会(国家、会社なども含めて)へ参加し、多様性を生かして相乗効果を発揮する状況を作り出します。だから、競争原理がある程度まで社会を発展させ成長させるというのは、ゆえなきことではありません。

しかし、どうしても限界が生じてしまいます。

勝った側のグループ内における多様性しか活用されていません。負けた側が持つ多様性は生かされません。しかも、負けた側は、憎しみや嫉妬を抱きやすいです。これが動機となって、さらに社会へ積極的に参加し多様性を生かしていこうという状況を生みだすこともありますが、人間はそんなに美しくはできていません。多様性を減らす方向へ働くことも少なくありません。競争原理による動機とは、負けることへの恐怖であることが多く、主体性を持った参加と言っても、ネガティブで消極的なものにとどまるでしょう。恐怖に基づくものでない、躍動するような主体性で多様性が生かされる創造の力にはとてもかないません。

創造原理は人類の古来の知恵

競争原理に対して、「創造原理」という言葉を私は提唱していますが、これはなにも新しい概念ではありません。私の発明や発見ではありません。世界中に古くから伝わる、人類の知恵です。多くの宗教にも共通しています。神話や伝説や昔話、最近の小説やドラマやアニメにも共通しています。現実世界でもいたるところで普通に見られます。

多様性ある集団

人類に創造の力が働くのは、個人個人がある社会に主体的に参加し、それぞれの多様性が生かされた時です。似たような性格や意見やスキルをもった人たちの社会は、多様性が少ないです。多様性が大きいということは、その社会にあつれきや対立や問題が大きいことを意味します。そのような、うまくいきそうもない社会や集団に、個人個人が共通する目標や目的をもって、自主的に参加し、各自の「不完全で未熟な」能力を組み合わせれば、奇跡が起きます。感動とは、こういう場面で生じる感情ではないでしょうか。

人々を抑圧するような強権的なリーダーシップでは、これはかないません。人々に尊敬されるような、人々が望んで賛同するようなリーダーシップであれば、奇跡を起こせます。リーダーシップという言葉でも、この両者はまったく別の概念です。

今、世界は

21世紀の世界は、グローバル化が進行し、国家の枠組みが弱くなりつつあります。いままでになかったことなので、それによる問題も次々出てきています。その問題に競争原理で対することは、なかなか困難でしょう。難しく、複雑な問題ほど、大きな多様性であたらねばならないからです。

グローバル企業

グローバル企業はすでに国家を超えた存在となっています。そのような企業を取り締まる法律やルールが存在しない場面も多くあります。そのような企業のせいで、深刻な問題が生じ、生活がズタズタにされているという視点もあるでしょう。

しかし、そのいっぽう、彼らのおかげで、人間として不充分な生活を強いられてきた地域の人々の生活レベルが向上し、解決できなかった問題が解決されつつあるという面もあります。グローバル企業は、独裁政治にはなれないでしょう。企業ですから、売上が伸びねば存続できません。国家が国民の意思にかかわらず税を徴収したり義務を強いたりするようなわけにはいきません。人々を踏みにじるようなやり方は、そうもできないでしょう。

だからといって、人間は聖人君子にはなれません。人類はグローバル化という未知の領域に突入しつつあり、試行錯誤を展開しています。その影響が、世界の隅々にまで及んでいます。私たちのささやかな日常も、世界の動きとリンクするようになってきています。

すると、私たちのささやかな問題も、今までのように解決することが難しくなりつつあります。

政治の問題も、多様化し、複雑になり、解決しにくくなってきています。多数決はすでに限界ではないでしょうか。逆に言うと、多様になってきているということは、創造の力を発揮しやすい環境が整ってきたとも言えるはずです。

創造の力は、意志であって、システムではない

創造の力を発揮するには、個人が主体性をもって社会に参加することが不可欠です。強制的な参加や、慣習による参加や、強迫的な参加は、創造の力を発揮できません。創造の力を発揮しない社会運営も可能ですから、じっさいのところ、必ずしも主体性をもって参加しなければ社会が成り立たないというわけではありません。

しかし、私たちが、現在より良い社会を望むのであるなら、創造の力を発揮せずに実現していくことはもはや困難でしょう。困難になっている最も大きな理由は、グローバル化です。国家の枠組みを超えたつながりが広がっています。競争原理による解決が、効果を持ちません。

創造の力は、どのような意志で参加するかが大事なので、創造の力を働かせるシステムはなかなか考えにくいでしょう。意志を動かすには、宗教か、というと、それもなんとも言えません。世界に存在する宗教は、個人の主体性を育てているでしょうか? なかなかYesとは言い難いのではないでしょうか。

このへんに、難しさがあります。

「意志」は戦争など破局につながらないか

かつて、民主主義がナチズムを生みだし、ヒトラーを生みだし、壮絶な惨禍につながりました。大衆の選択が常に最善であるとは限りません。それを防ぐために、「意志」の暴走に歯止めをかけるシステムが必要であるという考えもあります。

しかし、大衆の意志が暴走するときには、間違いなく、多様性が排除されています。ナチズムが生まれるとき、反対意見が圧殺され、否定され、やがては弾圧されました。多様性を否定した「大衆の意志」は凶器です。

いっぽう、多様性は、意志決定の障害になるという考えもあります。だからこそ、多数決が必要であり、競争原理が不可欠なのだと。

多様性が、より良い意志決定を加速させるというあり方は、現実離れしたユートピアにも思えます。しかし、現実に、そのような事例は珍しくありません。ただ、国家レベルでは、いまだ実現していないでしょう。

無理なのでしょうか、本当に。

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